日本最東端の地でジャズを鳴らし続ける
「よくきかれましたよ、どうして根室でこんなにジャズが盛んなのですか? って」とマスターの谷内田一哉さん。
「根室でジャズが盛んなのは、日本のいちばん東、つまり、いちばんアメリカに近いからじゃないですか? なんて冗談をよく返してました(笑)」
1970年代から80年代にかけて、雑誌『スイングジャーナル』に毎月のように活動報告が掲載された「ネムロホットジャズクラブ」は、全国のジャズファンにとって刺激的な存在だった。とりわけ、同会主催による根室での公演をスリー・ブラインド・マイス(TBM)からリリースしたアルバム『日野元彦/流氷コンサート』(76年)は、傑作として大きな話題となった。谷内田さんはこのクラブの創立メンバーであり、「サテンドール」はいまも同クラブの事務局だ。
「1964年の暮れに、私も含めて5人の若者が喫茶店の隅っこで、ジャズについて語り合える場を作り、ジャズを広める活動をようと話し合いました。翌年1月に発足したのが『ネムロホットジャズクラブ』です。『地理的に最果てであっても、文化的な最果てにあらず』がスローガンでした」
月に2回、市内の喫茶店を借りて、会員の数名がレコードを持ち寄り、それを他の会員がリクエストして鑑賞するというのが主な活動だった。
当初の数年間は盛況だった。しかし、レコード鑑賞だけでは飽きられるようになり、やがて会員数は減少して低迷期を迎えてしまう。
1974年、人気ベーシストの鈴木勲から根室でコンサートができないかという打診が同クラブに入る。賛否両論のすえ、市内の時計店の2階で同クラブ初の主催公演「鈴木勲カルテット」を行なった。定員の200人を越える盛況となって話題になり、クラブも一気に息を吹き返す。
翌75年に「日野皓正/サヨナラコンサート」、1976年に「日野元彦/流氷コンサート」がTBMからレコード化され、なかでも「流氷コンサート」は、70年代の日本人ジャズレコードを代表する1枚となった。
「『内容がよければレコードにしますから』というのが、TBMのプロデューサー、藤井武さんから最初にいただいた話だったんですよね」と谷内田さんは振り返る。
「ネムロホットジャズクラブ」の活動は1975年には根室市の文化奨励賞を受賞し、その後もNHKなどテレビに何度か取り上げられた。
1978年、忙しくなったクラブの活動拠点となるジャズ喫茶を開こうということになり、谷内田さんがサラリーマンをやめて「サテンドール」を開店することになった。
「打ち合わせが夜中になることもあって、仲間内から誰かジャズ喫茶をやれよという話になって、私が代表を務めていたものですから引き受けることになりまして。店を始めたときは40歳でした。もう、どうともでもなれという気分でしたね(笑)」
谷内田さんがジャズを聴くようになったのは高校生のときだった。
「ジャズというよりもグレン・ミラーとかベニー・グッドマンなどのポピュラーミュージックでした。父は新しもの好きだったので、中学のころからトランジスタラジオを買ってもらって音楽を聴いていました。東京に下宿するときも退屈だろうからとラジオを買ってもらいました。下宿先は西荻窪と吉祥寺。ジャズ喫茶には行かなかったですね、まだ新宿に『DIG』ができる前でした。『スイングジャーナル』を読みながら、今にみてろ、社会人になったらレコードをいっぱい買ってやるぞと思っていました。東京ではレコードは1枚も買いませんでした」
「私が根室に帰ったのは昭和36年(1961年)。映画『真夏の夜のジャズ』や『死刑台のエレベーター』が日本に入ってきたころで、アート・ブレイキーが来日して、モダンジャズが流行りはじめたころでした」
「根室に帰ると親が経営していた同族会社で働きはじめました。そこにしがみつくしかなったんです。そして昭和43年(1968年)に夢だったステレオを買いました。38センチウーファーの3ウェイスピーカー、パイオニアCS-100のセット。当時の国産のモデルではいちばん高いものでした。給料が月1万2、3千円のころにそのステレオは8、 9万円しましたから。町の電気屋に注文してから届くまでに1カ月かかりました。毎日駅まで届いてないかと見に行きましたよ」
「サテンドール」は最初は市の繁華街で営業をしていたが、国道や駅に近いもっと交通の便のよいところをという理由で開店3年後に現在のJR根室駅前に移転した。
「オーディオにはそれほどこだわってないですね。田舎だと関係ないですから。音を下げてくれとかいわれますし。それよりもレコードに力を入れようと。トラディショナルからフリーまで、広く浅く揃えました。その頃の根室のレコード屋はけっこう力のあるところだったので、国産のジャズレコードはほとんど入ってきていました。マイルス・デイヴィスのような人気のあるものは1枚ぐらいしか入ってこないので電話を入れて取り置きをしてもらったり。給料が月1万ちょっとの時代に僕は何枚も買うものだから、他の客からは何者かと思われていたみたい。懇意にしていたからツケ買いができたんですよ」
「TBMのレコードも、もらうだけじゃなくて、よく買いました。100枚ぐらいあります。店をやめるときでもTBMだけは最後まで残しておこうと思っています」
交通の便がよくJR駅にも近いということで、「サテンドール」には地元だけでなく、たくさんの旅の若者たちやバイカーが全国からやってきた。
「いまもバイカーがよく立ち寄ってくれますけど、みんなおじさんですね(笑)」
2015年に創立50周年を迎えたクラブはいまも毎月の例会を欠かすことがない。主催ライブも通算90回を越えた。ただ、会員の平均年齢は60代、谷内田さんも2017年で78歳になる。
「昔は町に2つあった高校もいまは1つになりました。漁業しかない町だから若者は高校を卒業したら札幌などよそへ出ていきます。だから新しいジャズファンを開拓できないんです。ライブをやろうとしてもチケットを売るほうも買うほうもロートルになっちゃって全体数が減り、もう大きなホールを借りることが難しくなりました」
向井滋春の「ニムオロ・ネイナ(根室の歌)」にちなんで名付けられた一人娘の「ネイナ」さんはずっと東京で暮らしているので後を継ぐものはいない。
「この店は私一代。いつシャッターを閉めることになるのか…」と谷内田さん。100回記念ライブはまだまだ先だ。
(了) ※2014年6月取材
※谷内田さんがご高齢のため店長を引退し、「サテンドール」は2018年3月31日でいったん閉店となりました。 根室市はその歴史を受け継ぎ、ジャズの街として地域を活性化させようと、最長3年任期の「根室市Jazzの街PR推進委員」として、「サテンドール」再開のための後継者2名を公募、東京都世田谷区の棚網宏さんご夫妻が後継者に決定、同ご夫妻が2018年9月10日(月)より「サテンドール」を復活させました。その後、2021年4月からは谷内田一哉さんの実弟、豊彦さんが3代目店主として「サテンドール」を引き継いでいます。https://nemurocity-iju.com/interview/75/
創業者の谷内田一哉さんは2022年8月に死去。
photo&text katsumasa kusunose @ jazzcity
Satin Doll サテンドール
- 創業1978年12月15日
- 住所:北海道根室市大正町1-24
- アクセス:JR花咲線「根室」駅から徒歩3分
- TEL 080-5483-5652 (HP:なし/SNS:なし)
- 営業時間:10:00〜21:00
- 定休日:不定休
- 席数:22席
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