リー・モーガンが酔っぱらってサインを書いたジャズ喫茶
青森のジャズ喫茶「ブルーノート」のマスター、岡本和夫さんは、青森市内中心部の商店街「夜店通り」の青果店のひとり息子として生まれ育ち、1952年、高校を卒業するとすぐに東京の神田須田町にあった青果店に奉公に出された。
「正月になると浅草の国際劇場でジャズをやるんですよ。白木秀雄が出ていたのを覚えています。浅草にはジャズと映画、そしてジャズ喫茶もありましたね」
ラジオでかかっている〝調子のいいもの〟が好きだったという岡本さんは、クリスマスソングなどからベニー・グッドマンを知り、それが《スイング》というジャンルの音楽だということを覚える。そして映画『グレン・ミラー物語』や『ベニー・グッドマン物語』などを通してジャズの世界になじんでいった。
「住み込みで働いていた店の2、3軒先に中古のレコード屋があったんです。それで秋葉原の中古屋で電蓄を買ってね、レコードを買おうとしたんですけど、高くて買えないんですよ。その頃は親からの仕送りは月1000円でしたから。2、3年目には5〜6000円送ってくれるようになって、ようやく買えるようになりました。ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートの10インチが中古の国内盤で1500円ぐらいしました」
東京に奉公に出されて5年後、岡本さんは青森の実家に呼び戻される。
「レコードはお世話になった中古屋にあげて、青森の実家ではラジオを聴いていました。親父の金をくすねて夜遊びしたりして、28ぐらいまでの5、6年は、何もしないでブラブラしていました。実家の果物屋が、私が覚えてきた東京のやり方を真似て、卸の果物をまとめて買って切り売りをするという、青森の他の店ではやっていなかったことをやったらそれがあたってね、儲かりました。
「1960年の7月だったかな、親父にそろそろ嫁さんをもらって身を固めろと。好きなことをやっていいからといわれて始めたのがジャズ喫茶だったんです。
「そのころはモダン・ジャズもまだそれほど流行ってはいなかったんですが、友達と雑誌に載っているレコードを見ながら《プレスティッジ》というレーベルの名前がいいなとかやりとりしているうちに店名は《ブルーノート》に決まりました。でもそのときブルーノート盤は1枚も持っていませんでした。
「ブルーノート盤を買い始めるきっかけはいソノてルヲさんでした。白木秀雄が青森でコンサートをやったときに彼が司会でついてきたんです。当時のいソノさんはいつもレコードを持ち歩いていて、コンサートが終わったあと、あなたの店でレコードコンサートをやりたいと私に持ちかけてきたんです。そのときに店で初めてブルーノート盤をかけてもらいました。お客さんはいっぱい入りましたね。
「最初に聴いたのはホレス・シルヴァー。それがよくてね。ほかの国内盤とはすごく違っててね。当時はブルーノートは輸入盤しかなくて、それでいソノさんに新宿の『マルミ』を紹介してもらって買うようになりました。最初は、ちょっとたけえなあ、1枚か2 枚ぐらいにしとこうと思ったんだけど、病がこうじて(笑)、毎週1、2枚ずつ取り寄せるようになりました。従業員の給料を払った残りはレコードに注ぎ込みました。でもいソノさんが『マルミ』を紹介してくれなかったら数年で店をやめていたかもしれないね」
『マルミ』というのは新宿にあった「マルミ百貨店レコード部(マルミ・レコード)」のことだ。最初は三越の前、紀伊國屋書店の隣ビルの「マルミ洋品店(百貨店)」の中にあったが、1963年に同じ新宿の三光町(いまの歌舞伎町、ゴールデン街のあたり)、花園神社近くに移転した。ジャズの直輸入盤がいちはやく入荷することで知られ、ジャズ評論家をはじめ全国のレコードコレクターやジャズ喫茶店主がこぞってここで海外の新譜を買い求めた。「マルミ」の店主はたいへんアクの強い人だったようで、植草甚一から村上春樹にいたるまで、さまざまな人たちがこの店主とレコード屋についてのユニークなエピソードを書き残している。
ちなみに、この「マルミ」が最初に入っていた紀伊國屋書店隣の「マルミ洋品店」のオーナー(マルミ・レコードの店主ではない)のご子息が「マルミ洋品店」裏の木造家屋で始めたのが、新宿「ピットイン」である。
「ブルーノート」という名前のジャズの店は日本全国にたくさん生まれてきたが、もしかすると1960年創業の青森「ブルーノート」が、いちばん古いかもしれない。ワンフロアにウェイトレスが5、6人、バーテンが2人いたという。オーディオは近所の電気屋から買った当時16万円もしたビクターのセットを置いた。
モダン・ジャズ・ブームのおかげで店は繁盛した。函館から青函連絡船でやってきて開店前から並ぶ客もいたという。
「青森ではウチより前には『サブリナ』というジャズ喫茶があったんですけど、そこはチェット・ベイカーやスタン・ゲッツなどのウェストコースト系白人ジャズをかける店でした。ウチでかけるのは黒っぽいのがほとんど。ヴェトナム戦争が始まったころで、三沢基地の米兵もよく遊びにきました。ウチに来るのは黒人兵ばかりで毎週土日にだいたい5、6人でつるんで来ていました。ヴェトナム行きの決まった同僚をまわりが慰めている姿をよく見ました。私も彼らを連れてキャバレーによく行きました。彼らはお金は持ってないからぜんぶ私のおごりで。彼らはたまにレコードを買ってくれと私のところに持ってきました。ジャケットはデューク・エリントンなんだけど中身は違ってたりとか(笑)」
だがジャズ喫茶全盛期で経営も絶好調だった1965年、父親の事業の事情により、店は突然売却されることになった。
「まとまったお金が必要だったんです。悔しくてね、もうヤケになりました」
「ブルーノート」閉店が決まったちょうどそのころ、1965年1月にアート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズが青森にやって来た。1500人ぐらい入る市民館会館がいっぱいになったという。
1961年の初来日から数えて3度目で、アート・ブレイキー(ドラムス)、カーティス・フラー(トロンボーン)、リー・モーガン(トランペット)、ジョン・ギルモア(テナーサックス)、ジョン・ヒックス(ピアノ)、ビクター・スプロールス(ベース)にパット・トーマス(ヴォーカル)を加えた編成だった。
ウェイン・ショーターやボビー・ティモンズなどを連れた初来日ほどの衝撃はなかったようで、当時の『スイングジャーナル』には期待はずれというコンサート評もあるが、興行的には大成功で、ツアーをプロモートしたオールアートプロダクションにとっては、同社が海外ジャズメンの招聘会社としてトップクラスの地位を確立するうえでの大きな足がかりとなるものだった。
岡本さんは、このとき、「ブルーノート」の有終の美を飾った。
「バンド全員とヴォーカルの女性も店に招待して、真冬で寒かったので外に出ないですむようにと近所の焼き肉屋から出前を取って、どんちゃん騒ぎをやりました。当時の新譜だった『サイドワインダー』をかけたら、リー・モーガンが『おおっ、オレのだ!』ってすごく喜んでジャケットにサインをしてくれました。ただ、宛名の《Sato》ってのは、私じゃなくて当時店にいたバーテンの名前なんです。アイツ、もうベロベロに酔っぱらってたから間違えやがった(笑)」
店を閉じてから30数年間、岡本さんはずっと家業の果物屋に励んできた。
しかし、腰を痛めて重いものが持てなくなったことや、娘たちもみんな嫁いで落ち着いたということで、手持ちの空いていた物件で1998年から「ブルーノート」を再開した。
店の広さはかつての半分ぐらい。レコードは前の店のものがそっくり全部残っていた。ブルーノート盤はCDを入れて200枚ぐらい。
ふだんはラジオを流しているが、ジャズが好きな客が来るとレコードをかける。ブルーノート盤についてはレコードリストを作ってあるので、岡本さんが不在のときでもそれを見てリクエストすることができる。
「私は昭和9年生まれでカミさんは5年ちがい。70過ぎてから心臓を悪くしてバイパス手術をしまして、それからはアルコールをやめました。昔は夜遅くまでやることもあったけど、いまは昼の3時からはじめて夜は11時まで。決まった時間にやらせていただいてます。カミさんはこういう商売が合ってんだろうね、話好きだから女性客が多い。いまは夫婦の力関係が逆転しちゃって、私はハイハイって言うこときいてますよ。コーヒーは1杯350円、ビールは550円。青森でそんなに高くしてもね、それにお客さんもみんなもう年金生活だから」
岡本さんの昔話は尽きることがない。だが詳細はここには書かない。岡本さんから聞いたほうがぜんぜん楽しいからだ。(了)
photo & text by 楠瀬克昌
Blue Note/ブルーノート
- 店主:岡本和夫/創業年:1960年7月
- 住所:青森県青森市古川1-17-4 2F
- TEL: 017-722-7288
- アクセス:JR「青森」駅より徒歩8分
- HP:なし/SNS:なし
- 営業時間:月〜土15時〜23時(休:日曜)
- 席数:19席 喫煙可
- ライブ:なし
- ディスク数:レコード、CD合わせて1,000枚
- メニュー:コーヒー350円 ビール550円 チャージなし
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