この映画にはジャズ喫茶「ベイシー」がそのままある。

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言い訳をしない映画とは

映画『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)』がまもなく公開される。ジャズ喫茶とそのマスターが主役の映画がこれだけの脚光を浴びながら全国の映画館に配給されることは、たぶん、もう二度とないだろう。ジャズ喫茶ファンの私としては、映画作品としての評価よりも、この映画を観た人が「ジャズ喫茶ベイシー」をどんな店と受け止めるのか、「ジャズ喫茶ベイシー」がどう思われるのか、それが不安でしょうがない。

幸いにも配給会社のご厚意で公開よりも先に映画を見せていただいたのだが、そこにあったのは私が知っている「ジャズ喫茶ベイシー 」の姿そのものだった。私が「ベイシー」で体験し、記憶としてあるものがそのままそこにあった。「ベイシー」を目指して一関に列車で向かう自分の姿や店内でのマスターやそこにいた人々のことがありありと思い出され浮かび上がってきた。

星野哲也監督の映画作りの目的もそこにあったようだ。「いつまでもあると思うな、親とジャズ喫茶」というのは「ベイシー」の菅原正二マスターが好んでよく使う言葉だが、菅原マスターが78歳となったいまは、もう冗談と聞き流せなくなってきている。「ジャズ喫茶ベイシー」を可能な限り、ありのままの姿で後世に伝わるかたちで残しておきたいという気持ちがこの映画を作る発端だったようだ。そのために映画製作の現場では世界的に絶大な信頼とステイタスを得ている高性能録音機材、ナグラで「ジャズ喫茶ベイシーの音」を録音した。まるで「ベイシー」で実際に聴いているかのようなサウンドを映画館で体験する、果たしてそのようなことが現実に可能なのかどうか、この大変困難な作業にあえて挑んだ。

星野監督は「この映画にとっては、ナレーションを入れるのは卑怯な言い訳だと考えていたので、会話と音楽でつないであります」とプレスリリースでコメントしているが、この映画のタイトルに「譚詩」とあるのは、監督のこのこだわりを踏まえてのものだろう。ナレーションの入ったものが散文的かつ説明的なドキュメンタリーだとすれば、この映画は映像と音による一篇の詩である、ということなのだろう。

しかし、「言い訳」が省略されているぶん、観客にとってはわかりづらいこともある。そのためにこの映画の製作で大きな役割を果たしているのがエグゼクティブ・プロデューサーの亀山千広と編集を担当した田口拓也だ。現BSフジ社長の亀山は「踊る大捜査線」シリーズをはじめ、数々の大ヒットを手がけ、田口は亀山の下で編集を行なってきた。その実績は間違いなく「日本一」と言っていいもので、いま日本で最も売れる映像作品作りができる人たちだ。

言い訳はしたくない、わかる人にわかってもらえればいいというのが星野監督のスタンスであるとすると、プロデューサーの亀山と編集の田口は、何百万、何千万人という視聴者に「わかってもらう」ことを仕事としてやってきた人たちだ。この映画の見所のひとつは、「水と油」のような性質を持つ星野監督と編集・田口の共同作業、あえていえば2人の丁々発止のセッションだろう。星野監督が渾身の「素材」で自分の想いのたけをぶつけてくるのを受けて、田口がそれをどのように作品として仕上げていくか。ジャンルが違うとはいえ、雑誌編集の仕事をやってきた私には、この両者のやりとりがスリリングで、あらゆる手法を駆使して観客をスクリーンに引き寄せようとする編集人田口の手腕には興奮させられた。

そして、「言い訳はしたくない」として「譚詩」というスタイルにこだわった星野監督の賭けは成功だったと思う。もしこの作品が通りいっぺんの説明的なナレーションでまとめられていたら、小粒なドキュメンタリーで終わっていたように思える。「言い訳をしない」がゆえに作品に奥行きと余韻をもたらすことができたのではないだろうか。言い方を変えると、お節介な説明を削ることによって「ベイシー」のありのままの姿がスクリーンに映しだされた。眼の前の「ベイシー」の映像と耳に響く音を受け止めて、観客それぞれが「ベイシー」の姿を脳裏に焼きつけていく。それぞれがそれぞれらしく「ベイシー」というジャズ喫茶を理解していくしかないのだ。

「菅原テーブル」と呼ばれる席

この映画で一番多いのは菅原マスターと親しい人たちがジャズやオーディオについて語るシーンで、その語りの大半は店の右手にあるレジの奥に設置された丸テーブル、常連の間では「菅原テーブル」と呼ばれる席で行なわれたものだ。6脚ぐらいが置かれたこの丸テーブルは「常連席」とでもいうべきところだが、ときには初対面でも案内されることもある。例えば、若いジャズ喫茶オーナー夫妻が開業前に「ベイシー」を訪ねてレジで会計をする際に「私たちジャズ喫茶をはじめるんです」と打ち明けたら、マスターに「ああ、そう。じゃあこっちでちょっと話でもしない?」と誘われたと聞いたことがある。おそらく、ほぼ毎日、「ベイシー」ではこんなことが繰り返されているに違いない。

私が「ベイシー」の丸テーブルに初めて座ったのは2014年の7月3日だ。「ジャズ喫茶案内」の取材のために東北を回っていた私が、宮城県栗原市にあるジャズ喫茶を1軒訪問した後、東北本線石越駅のホームで一関方面行きの普通列車を待っていると携帯電話に菅原マスターから電話がかかってきた。「いま、どこにいるの?」。「あと1時間ぐらいで伺えます」と答えると、「申し訳ないんだけど、今日の取材はなしにしてもらえませんか? 東京の知り合いが重篤になっちゃってね……ちょっと今日は無理だね…」。「わかりました。でもすぐ近くまで来ていますので、ご挨拶だけでもさせてください」と返事をすると、「じゃあ、来て」ということになった。

電話のやりとりから1時間後の午後5時ごろに「ベイシー」の前に立つと、半分まで降りたシャッターに「本日休業」という貼り紙がされていた。中をのぞくと灯りがうっすらとついていたので扉を開けて入ると、レジカウンターの奥の丸テーブルに菅原マスターが座っていて、挨拶をするとそこに手招きされた。丸テーブルには70代前半ぐらいの夫婦が座っていた。3人ともに沈痛な顔をしていて重苦しい雰囲気が流れていた。菅原マスターが口を開いた。

「東京の知人が倒れちゃってね、どうもダメらしい」。丸テーブルに同席した老夫婦は一関在住で「ベイシー」の常連であり、マスターの「東京の知人」とは共通の知り合いだった。。後になってわかったのだが、このときの「東京の知人」とは、伊藤八十八のことだった。

伊藤八十八は菅原マスターの生涯の友で日本レコード史に残る名プロデューサーだ。菅原マスターとは早稲田大学のジャズ研時代からの知り合いで、フィリップス・レコード(現ユニバーサルミュージック)の洋楽編成担当を経て1975年に鯉沼利成、伊藤潔とともに「イースト・ウィンド」レーベルを設立、トニー・ウィリアムスのザ・グレイト・ジャズ・トリオをはじめ、渡辺貞夫、日野皓正、菊地雅章、本田竹廣などの数々のジャズ名盤をプロデュースした。その後CBSソニー(現ソニーミュージック)に移ってからはマイルス・デイヴィスやハービー・ハンコックなどを担当、2002年にはレーベル「88(Eighy-Eight’s )」を主宰し、会社「エイティエイト」を設立、2012年から軽井沢ジャズ・フェスティバルを亡くなる2014年まで毎年開催した(亡くなった後の2015年も伊藤夫人が遺志を継いで開催)。菅原マスターは、生涯のジャズの師と仰ぐ評論家の野口久光先生を水戸黄門とするなら、自分と伊藤は助さん、格さんだとよく語っている。

そんな伊藤の容態を心配するやりとりから話題が外れ始め雑談となったころ、私は挨拶も済んだのでそろそろ「ベイシー」を出ようと思ったのだが、菅原マスターが私の前にサッポロ黒ラベルの350ml缶とグラスを一つずつ、ポンと置いた。これを飲まないと失礼かなと思い、ひと缶を飲み終えたら、すぐさまマスターがまたもうひと缶を置いた。私も根が酒好きなものでこれも飲み干したら、さらに間髪入れず、もうひと缶が出て来た。「ベイシー」を訪れたカウント・ベイシーがマスターに「Swifty(迅速なヤツ)」というニックネームをつけたのはこういうことだろうか。それを飲み終えると、今度はジャック・ダニエルのオン・ザ・ロックが出て来た。グラスにたっぷりと入った濃いバーボンが旨い。これもまた私の好物なので、ついつい頂いてしまう。結局、3、4杯を気持ちよく呑んでしまった。この間、「ベイシー」にはマスターと親しい人たちがやってきて、丸テーブルで雑談の花が咲く。映画にも出てくるダイナミック・オーデイオの厚木繁伸も、東京から新幹線に乗って土産のワインをさげてやって来た。映画では、この丸テーブルで菅原マスターを中心にジャズ談議やオーディオ談議をしている様子が撮影されているが、まさにあの映画のままの光景が目の前で起きていた。結局、「ベイシー」を出たときは夜の9時を回っていて、これなら予定通り取材もできたんじゃないかと思った。

「ベイシー」の丸テーブルは、楽しい酒だ。各自がああでもない、こうでもないと持論を展開するわけだが、菅原マスターはそれをアタマから否定したり、押さえつけるということはけっしてない。マスターの思わずメモを取りたくなるような金言も飛び出す。この日、特別に印象に残ったのは、ダイナミック・オーディオの厚木が何かの拍子に「私物化はよくないですよね?」と言ったときに菅原マスターが「うん、ジャズの私物化はよくない。私物化しちゃいかん」と言ったことだ。

どんなジャンルでも同じことが言えると思うが、その世界での第一人者となるとその人そのものがその世界そのもののようになってしまうことがある。例えば「ピカソ研究の第一人者」がいつのまにかピカソ本人よりも「えらく」なってしまうことがよくある。菅原マスターが「ジャズの私物化はいかん」というのはそういうことではないのかと私は受け止めている。実際、菅原マスターはJBLの再生に関しては第一人者だが、本人がそのように振る舞ったことはない。菅原マスターが醸し出す雰囲気からなんとなく「偉そうなイメージ」を抱いてしまっている人は少なくないと思うが、マスターの過去の著作や言動を振り返ると、むしろ謙虚と言ってもいいぐらいだ。

「オレも生意気だとかずいぶん言われてるけど、カウント・ベイシー、ジム・ランシング(JBL創設者)、レコードを作ってきたたくさんの無名の人たち……(ジャズにかかわる)全方位にずっとひれ伏しているんですよ」

映画の中で菅原マスターがこう語るように菅原マスターが「ジャズにかかわるすべてのものに平伏している」というのは真実だと思う。そしてジャズへの敬意と情熱、記憶がたっぷりと詰まった場所が「ジャズ喫茶ベイシー」なのだ。

We Want BASIE

さて、映画館で「ベイシーの音」がどのように聴こえるのか。映画が始まって10分過ぎに「ベイシー」のターンテーブルやスピーカー、アンプなどのサウンドシステムをテロップ付きで紹介するシーンがやってくるが、マスターがコロンムビア・レコードの赤いラベルが見える盤に針を下ろしてJBLプリアンプSG520のヴォリュームレバーを上げると、マイルス・デイヴィスの「We Want Miles」(82年発表)が飛び出してくる。この音が凄い。出だしのマーカス・ミラーのエレクトリック・ベースが「ズゥムン、ドゥゥムン」と鳴った瞬間に、そのあまりのカッコいい響きに心底シビれてしまった。おそらくクラブ世代、ヒップホップ世代の人は、スピーカーからこんなふうに凄いベースが響いてくる体験をしたことはないだろう。クラブ世代、ヒップホップ世代ではない私もこんなにカッコいいベースの鳴りは聴いたことがない。その直後に「レコードを演奏する」という文字がスクリーンにズバっと大きく映し出される。「We Want Miles」は菅原マスターが「お気に入りのアルバムを挙げてください」と質問されたときには必ずといっていいほど出してくるアルバムだが、ツボを押さえた見事な演出だ。

このときのマーカス・ミラーのエレクトリック・べースもそうだが、「ベイシー」で聴くベース楽器の音は素晴らしい。「ベイシー」ではビル・エヴァンス・トリオのヴィレッジ・ヴァンガードでのライブ盤がよくかかるようだが、そこで聴くことができるスコット・ラファロのベースは絶品だ。ベースという楽器の再生は低音を重視すると動きが鈍重になるし、動きを重視すると本来の響きが持つ重厚な魅力が薄れてしまう。ラファロのプレイの特徴は自由闊達なポジショニングにあるが、「ベイシー」で聴くと、彼のダブルベース(コントラバス)がまるでフラメンコギターを爪弾いてるかのように聴こえる。空間に響き渡るそれは、軽やかで豊潤で重量感に溢れている。どんな再生装置で聴いてもラファロの天才はそれなりに聴き手に伝わるものだが、これほどに彼の超絶技巧と音楽性の豊かさが同時に感じとれるのは「ベイシー」というジャズ喫茶以外にはそうはないだろう。まさに「レコードを演奏する」とはこのことだ。

こうした再生が可能なのは、菅原マスターのミュージシャン的な「耳」によるものだろう。実際にラファロの演奏を生で聴いたことはなくても、彼ならこのような音を出すはず、という「ミュージシャンの耳と感覚」から音をつきつめているに違いない。菅原マスターは客が誰もいないときは、2つのスピーカーのど真ん中に座り、スピーカーを背にして目を瞑ってじっと聴いているが、あれはどうやらミュージシャンと同じステージに立って共演している状態に自分の身を置いているらしい。それはバンドサウンド全体を見渡すドラマーのようであり、またクラシックの指揮者のようである。後ろから聴こえてくる音を頼りに各演奏者を聴き分けているのだ。例えばそれがカウント・ベイシー楽団であるなら、「ジョー・ニューマンのトランぺット、ここはもうちょっとアタックが洒落てるはずだ」とか「ベイシー楽団のトロンボーン3管隊はもっとフワっとまろやかなんだよ」などと判断しながら、その自分の感覚をもとに装置を追い込み、思いどおりの音が出てくるまで調整しているのではないだろうか。

オーディオの悪魔が潜む空間

「ベイシー」にいるとまるで本物のミュージシャンが目の前に立っているかのように聴こえる秘密は、音像定位が驚異的に良いからだ。定位がピタッと決まっていることによって、スピーカーから出てくる音がホログラフィーのように演奏者の姿を形作る。「ベイシー」にいると、席を一つ、わずか30センチぐらいでも移動すると、聴こえてくる音が違ってくることに驚かされる。この差はオーディオマニアでなくともすぐにわかる。これをクルマに例えると、一般車の場合はハンドルに「遊び」があり、ハンドルを左右に少し動かしても車は問題なく直進してくれる。だが、F1レースで乗るフォーミューラーカーとなると、その「遊び」がまったくなく、時速300kmで走っているときは指先でちょんとステアリングを突いただけでも車体はその突いた方向にすっ飛んでいくという。F1マシンのステアリングはそれだけ精密かつ繊細に調整されているわけだが、「ベイシー」の音場もこれと似たものではないかと思う。

しかし、このように異常なまでにデリケートな音空間ではあるが、聴く者の神経をすり減らすような場所かというとそうでもない。「ベイシー」はあくまでも喫茶店なのだ。大音量ではあるが圧迫感はなく、ゆったりと珈琲を楽しみながら過ごすことができる。これもまた、マスターの調整によるところではないかと思う。「ベイシー」に開業当初から通っている岩手県のあるジャズ喫茶のマスターが「あの丸テーブルに座っていてもすごくいい音が聴こえてくるんだけど、あれはどういう仕掛けなんだろう? 音が店の中を回り巡っていい按配であそこに届いてくるのかなあ」と話したことがある。スピーカーからは遠い、店の奥の隅っこの丸テーブルにいてもちゃんと「いい音」で聴けるのがなんとも不思議なのだ。まあ、マスターはいつもそこに座っているわけだから悪く聴こえるはずがないだのだが。

JBLの音は耳にキツイというのはオーディオマニアの定評で、菅原マスターも映画のなかでJBLスピーカーについて「(60年代に)よそで聴いたときはいいなと思うことは1回もなくて、硬いなとか、やかましいなと(思った)」と否定的に語っている。おそらく菅原マスターは、このJBLのキツいサウンドを心地良いものに変えるために、ずっと試行錯誤を繰り返してきたに違いない。私にはそれがどんな方法なのか、もちろんわからないが、耳で感じる印象としては、「ベイシー」のサウンドにはどこか甘い香りがする。それは、たとえばダンディな男性とすれ違う瞬間、ほのかにいい香りがふわっと漂ってくることがあるが、その感覚とよく似ている。

この甘く、そして悪魔的な「ベイシー」の音空間を観客が味わうという点でこの映画の白眉は、ビル・エヴァンス・トリオが流れる瞬間だろう。ネタバレを避けるためにどんな場面でどういう曲が流れるかはここでは説明は避けておくが、突然、わずか1分ぐらいの間、会話もナレーションもなく音と映像が流れるシーンがやってくる。おそらく観客の誰もが、その美しい時間に魂を奪われてしまうだろう。そして「ベイシー」でジャズを聴くというのはこういうことなのかと納得していただけるに違いない。

ライブ演奏の場としてのジャズ喫茶

丸テーブルでの常連たちによる会話、時間が止まったかと思えるほどに美しい音と映像、そしてもう一つ、この映画を構成している大きな要素が「ライブ空間としてのジャズ喫茶ベイシー」だ。映画では渡辺貞夫、坂田明、エルヴィン・ジョーンズ、ペーター・ブロッツマンたちが演奏する「ベイシー」でのライブ映像が紹介される。

「ジャズ喫茶」がレコード再生のための空間であることは間違いないが、「生演奏と接する場」としての機能も長い間果たしてきたことは、あまり語られることはない。1970年代に入ると、北海道から沖繩まで全国各地のジャズ喫茶がその地域の中心となって国内外のジャズ・ミュージシャンを招聘して地元のジャズファンに生演奏に触れる機会を提供してきた。全国のジャズ喫茶を巡っていると、「こんな有名なミュージシャンもここに来たのか」と各地に残されたジャズメンたちの足跡に驚かされることが多い。60年代は海外ミュージシャンの生演奏を聴くことは高嶺の花だったが、70年代以降、ジャズ喫茶がその敷居を取り払った。そして今もそうだが、ミュージシャンにとってジャズ喫茶は日々の仕事を得られる場としてその役割をずっと果たして来た。ジャズ喫茶とは決してレコードオタクたちが集まってレコードの品定めだけをしている場所ではない。

「ベイシー」もまた、岩手県とその近隣のジャズファンに生演奏の機会を提供してきた。「ライブは、いつも赤字なんだけど、地元の人たちに本物の生演奏を聴かせてあげたいしね」と菅原マスターが私に語ったことがある。しかし、にもかかわらず、「〝菅原さんは地元よりも東京のほうばっかりを向いている〟と陰口をいう人もいるんですよ」と「ベイシー」の常連客が嘆いたことがある。親の心、子知らずということか。

この映画に出てくる阿部薫の鬼気迫る演奏の映像は残念ながら「ベイシー」のものではなく今はなき福島のジャズ喫茶「パスタン」で撮影されたものだという。星野監督によると映像と音は完璧に残っていて、いずれ公開されるかもしれないという。

阿部薫が「ベイシー」で演奏したことがあるのは1971 年12月で、秋田大学へのコンサートへ向かう前日と秋田大学からの帰り道の2回だ。その演奏の一部は「阿倍薫 暗い日曜日」というCDに遺されていて菅原マスターがライナーノーツを書いている。阿部の理解者でありプロモーターで、のちに『カイエ』編集長となり、村上春樹との交流でも知られた小野好恵と阿部薫の一行が秋田大学でのコンサートに向かう途中、「ベイシー」に立ち寄った。客がいなくなった夜8時過ぎに小野が菅原マスターに「ぜひ聴いてくれ」と談判をし、マスターのOKが出ると阿部は楽器を組み立てはじめ、セッションを敢行したという。阿部たちが演奏をしている最中にマスターがエルヴィン・ジョーンズとリチャード・デイビスの『ヘビー・サウンズ』を流すと阿部がそれに合わせてレコードと共演を始めた。面白くなったマスターがジョン・コルトレーンのアルバム『クル・セ・ママ』のコルトレーンが演奏しているチャンネルの音を消してドラムのエルヴィン・ジョーンズだけが聴こえるようにすると、それに応えて阿部はアルトとバスクラを駆使してエルヴィンと共演しているかのように燃え上がったという。阿部薫が22歳、菅原マスターが29歳のときのことだ。このエルヴィンが「ベイシー」でドラムを叩いている映像も映画で流れる。

渡辺貞夫は、定例イベントとして毎年4月に「ベイシー」でライブをやっていて「ベイシー」との絆が最も強いミュージシャンの一人であり、坂田明はミュージシャンの中では菅原マスターとはもっとも気心の知れた間柄だろう。意外な顔が出てきたと感じたのはヨーロッパ・フリー・ジャズの重鎮、ペーター・ブロッツマンのライブ演奏と彼へのインタビューが収録されていることだ。

ブロッツマンは1980年にアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ率いるグローブ・ユニティ・オーケストラのメンバーとして日本に訪れて以来、日本には何度もやって来ている。一昨年閉店した東京・渋谷の「メアリージェーン」がお気に入りのジャズ喫茶で、来日した時には必ず一度は顔を見せたという。また千葉のジャズ喫茶「CANDY」でもよくライブをやっている。私は彼の初来日の時のグローブ・ユニティ・オーケストラ公演の裏方アルバイトをやっていて、彼の演奏を間近に見ることができたが、まるでこちらの身体が一刀両断されるような凄まじい音圧に驚かされた。映画では阿部薫の演奏を「日本刀で振り払うような」凄い演奏だったと管原マスターがふりかえっているが、ブロッツマンにも同じことが言える。「寄らば斬る」といったオーラを漂わせながら精悍にズシズシと歩く若い頃の彼はまるで日本の剣豪のようだった。今やジャズ界のラスト・サムライかもしれない。映画の「ベイシー」でのライブでもその凄まじいパフォーマンスの一端を垣間見ることができる。

ここまで述べてきたように、この映画は「ベイシーでのジャズな談義」、「ベイシーの音」、「ライブ空間としてのベイシー」という3の大きな要素によって構成されている。編集の田口は、150時間に及ぶ映像の一つひとつをチェックしてメモに書き留め、そこから構成して104分の尺にまとめあげた。「ベイシーのありのままの姿を映画に残したい」という星野監督の意図を損なうことなくエンターテインメントとして仕上げたその手腕は、やはり凄いと思う。

「言い訳はしたくない」という星野監督のその言葉を言い換えると、それは「脚色を加えることなく『ベイシー』の姿を観客に伝えたい」ということだろう。星野監督が撮り溜めた膨大な映像は星野監督の「ベイシー愛」の産物だが、映画には星野個人の想いは消えて「ベイシー」のありのままの姿がある。そこにはドキュメンタリーというノンフィクションがともすれば陥りやすい罠である「嘘」がない。この映画には「ジャズ喫茶ベイシー」がそのままある。

ジャズな人とは

「ジャズな人」という言葉がキーワードのひとつとしてこの映画に登場するが、私が「これはジャズな人だな」と痛感したシーンがあった。それは60年代末の大学紛争の映像が差し込まれ、この時代に何をしていたかを菅原マスターが尋ねられるシーンだ。マスターはこう答える。

「オレはああいうのを小馬鹿にしてたから、(彼らが闘争を)やってる最中に夜な夜なダンスパーティーで稼いでいた(笑)」

この当時、菅原マスターは早稲田大学を卒業してプロのバンドマンとして東京で活動をしていた。健康を害して一関に帰る直前だ。また、新宿の「DIG」 「DUG」オーナーの中平穂積にも同じ質問を投げるが、中平はこう答える。

「60年代から新宿で(店を)やってたからよくあの頃の学生運動のことを聞かれるんですけどね、全然知らないんですよ、実は。お恥ずかしいですけど。というのは店の中にいると、これは別世界なんですね。今までデモに加わってた若者たちが、僕のところに来るときはデモのときに来てたシャツとか着替えて、うちに入って来ると、ひとことも(会話しない)。おしゃべり禁止ですから」

当時を知るジャズ喫茶店主たちは、中平とほぼ同じようなことを証言している。学生たちはジャズ喫茶にいるときは皆がヘルメットを椅子の下に隠して無言でジャズに聴き入っていたという。セクトの目印であるヘルメットが見えないのだから、対立するセクトの学生たちが揉め事を起こすことはない。よく60年代のジャズ喫茶を語る際に学生運動の文脈のなかに取りこまれがちだが、実際にはジャズ喫茶と学生運動とのかかわりはほとんどない。あるとすればそれは店と客としての関係だ。デモの際の避難場所や活動の休憩場所として機能していたぐらいで、アジト化していたり、学生を思想的に洗脳する場所として使われていたという店はほとんどなかったようだ。また、紛争によって大学がロックアウトされて授業に出席できないためにヒマを持て余した一般学生たちの現実逃避の場のひとつとしてジャズ喫茶があった。

菅原マスターや中平オーナーのコメントは、「ジャズな人」そして「ジャズ喫茶族」とでもいうべき種族の性質をよく示していると思う。

世間は世間、オレはオレ。

世間の動向に無関心であるとかノンポリというわけではないのだが、なにがしかの集団に帰属することや群れることを本能的に避ける習性とでもいうべきものがあるように思える。昔からジャズの世界ではジャズメンのことを「Cat」と 呼ぶが、先に挙げた「ジャズな人」は、どこか「Cat(猫)」と呼ばれる種族と行動形態がよく似ている。映画のタイトルにもある「Swifty (迅速なヤツ)」は、菅原マスターにとっての一番の恩人、カウント・ベイシーが「ベイシー」を初めて訪ねた際、周囲に目を光らせながら手早く、万事つつがなく仕切ってベイシー・オーケストラをもてなす菅原マスターの姿を見ての命名だという。それはカウント・ベイシーが菅原正二のことを「お前もCatだぜ」と認めたことではないかと思う。言い換えるとそれは、菅原正二が「ジャズな人」ということだ。(了)

※文中敬称略とさせていただきました。

文と写真(2014年撮影)楠瀨克昌

『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)』の公式パンフレットに「ジャズ喫茶とは何か」というテーマで、「ベイシー」のジャズ喫茶の歴史の中での立ち位置、「伝説のジャズ喫茶」となるまでの道のりについて書いています。

「菅原テーブル」と呼ばれる丸テーブルと菅原正二マスター。(C)「ジャズ喫茶ベイシー」フィルムパートナーズ

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