ジャズ喫茶とは、ジャズを聴きながらお茶をするところである。
「敷居が高い」「怖そう」という風評をよく耳にするが、実際のジャズ喫茶で客が体験することは、店に入って席につき、オーダーを伝え、珈琲を飲み終わったらレジで勘定を済ませて店外に出る、ただそれだけのことである。
他人に迷惑をかけない、このルールさえ守っていれば、ジャズ喫茶は身を小さくしながら過ごす空間ではない。
むしろ慣れてくれば、これほど自由を実感させてくれる場所がほかにあるだろうかと思えてくる居心地のよさがある。
「ジャズ喫茶」の存在が世間一般に広まったのは1960年代だった。日本中に巻き起こったモダン・ジャズ・ブームの勢いに乗った。
ビートルズ登場以前の一時期、モダン・ジャズは最先端のカルチャーとして若者たちの心をとらえた。1961年のアート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズの初来日をはじめに、マイルス・ディヴィス、ホレス・シルバー、セロニアス・モンクなど、名のあるジャズメンたちが毎年次々と日本にやってきてコンサートホールで公演を行なうようになった。
しかし、彼らの演奏を生で体験できるのは大都市に住むごく一部の恵まれた人にすぎない。
ジャズを聴くだけならラジオで間に合うが、高価なオーディオ装置と大音量再生によって、“まるで目の前で演奏しているかのような体験ができる場”としてのジャズ喫茶の存在は、海外の第一級の音楽のナマの姿に少しでも近づきたかったジャズファンにとっては必要なものだった。
また、当時の大卒初任給が1万5000円前後だったの対して、レコードは輸入盤LP1枚が3000〜3500円、国内盤で2000円前後もするたいへん高価なものだった。
裕福ではない若者たちが、珈琲一杯のお金(100円程度)で新譜や、よりたくさんのレコードに触れてジャズの知識を深めることができるジャズ喫茶へと足繁く通うのは当然のことだった。
ジャズ喫茶がライブの疑似体験やジャズ研究の場として機能するためには、たとえそれがたんなるレコードによる音楽再生であっても、会話をせずに黙って鑑賞する態度が客に求められるようになる。
それはコンサートホールや映画館、図書館で求められるマナーと同じものだった。
「ジャズ喫茶は会話厳禁」を全国的に有名にしたのは、1961年開業の新宿「DIG」だろう。
ずいぶん高圧的な接客と受け止められがちだが、店主の中平穂積氏によると、当初は会話もOKだったのだという。
ところが客同士の間で「うるさい」「何だと?」という喧嘩がひんぱんに起こるため、トラブルを未然に防ぐ措置としてやむをえずこのようなルールを設けることになったのが真相らしい。
新宿「DIG」より以前から、会話をすると叱られるというジャズ喫茶はあったようで、中平氏も通った新宿「木馬」などはそのマナーの厳しさが評判となっていた。
ただ、中平氏によると新聞をめくる音がうるさいと喧嘩になるほどだったという当時のDIGのピリピリとした空気は、モダン・ジャズ・ブーム絶頂期の60年代特有のものといえるかもしれない。それほど客がジャズを聴くことに飢えていた時代だったのだ。
中平氏は1967年には念願だった会話も楽しめることをコンセプトにしたジャズ喫茶「DUG」を「DIG」の近くに開店、新宿に集まってくる文化人やアーティストたちのサロン的な役割を果たすとともに、のちの時代のジャズカフェスタイルの先駆けとなる。
ちなみに「会話禁止」を掲げるジャズ喫茶は、東京など大都会の有名店を除くと、もともと全国的には少数派だったのだが、その数は80年代を境に激減、いまもこのルールを守っているのは、新宿・四谷の「いーぐる」(午前11時30分から午後6時まで会話禁止、以降閉店までは会話可)、東京・早稲田の「Jazz Nutty」、横浜・野毛の「ちぐさ」(午後12時から午後6時までは会話禁止、以降閉店までは会話可)、神戸・元町の「jamjam 」(会話禁止エリアと会話エリアの2つに分れている)ぐらいである。
ジャズ喫茶は世界に類のない、日本独特のカフェスタイルだが、原型まで辿るとその歴史は長い。
モダン・ジャズ・ブーム以前のジャズ喫茶、とくに戦前のジャズ喫茶がどのようなものであったかは、音楽学者細川周平氏の論文「ジャズ喫茶の文化史戦前篇、複製時代の音楽鑑賞空間」に詳しい。
細川氏によると戦前の時代からすでに、ジャズやクラシックのレコード再生によって客を集めていた「レコード喫茶」には、現代と変わらぬマニアックなレコードコレクターやオーディオファイルが存在し、ニッチな文化集団を形成していたのだという。
細川氏の論文でも触れられているが、日本初のジャズ喫茶は、1929年(昭和4年)に東京・本郷赤門前に開店した「ブラックバード」であるというのが定説となっている。
オーナーは野口清一氏。野口氏は戦後、吉祥寺に喫茶店「ファンキー」を開業、ご子息の伊織氏が経営を引き継いでからは、「アウトバック」「サムタイム」など新機軸の系列店を吉祥寺に次々と展開、「メグ」をはじめ「モア」「スクラッチ」などの系列店を興した寺島靖國氏とともに、吉祥寺がジャズの町といわれるほどの一時代を築いた。
野口氏によると「ブラックバード」の開業資金は2750円。間口は二間(約3.6m)、奥行は四間(約7.2m)の店舗だった。
ちなみに1933年(昭和8年)に開業し、現存する日本最古のジャズ喫茶、横浜「ちぐさ」の故吉田衛氏の述懐では、当時のレコードの値段は輸入盤が3円50銭から8円50銭、日本盤が95銭から1 円50銭ぐらいだったという。
「ちぐさ」創業時の珈琲一杯の値段はチップ込みで20銭と通常の喫茶店の10〜15銭よりも高めだったが、それでもダンスホールで生の演奏を聞くことに比べれば安いもので、一般の日本人がジャズに触れる機会の少なかった当時の状況からすれば「上流階級のものだったジャズを大衆に広めたのは我々のジャズ喫茶なんです」(『ジャズ批評Vol.12 特集日本にジャズが入ってきた頃 』)という吉田氏の主張はけっして大げさとはいえないだろう。
「ブラックバード」に話を戻すと、野口氏はもともとはダンサーをめざしていたのだが、脚のケガによりキャリアを断念、開店資金の半分は自分で貯めていたものだったが、残りは父親から借りた。かなりの大金だったが、店は大繁盛、わずか3カ月ほどで完済したという。
店ではエセル・ウォーターズ、デューク・エリントン、チャールストン・チェイサーズ、ジミー・ランスフォード、ルイ・アームストロングなどの10インチSP盤をかけていたという。
当時のジャズ喫茶のオーディオ装置の主流は手動式の蓄音機で、レコードを1枚かけるたびにクランク・ハンドルでネジを巻くというスタイルだった。
しかし野口氏はシアトルに住んでいた叔父から 、RCAビクターのエレクトラという、扉のついたマホガニー色の大きな家具調の電動式連奏プレーヤーを送ってもらい、これを店に置いたところ、大変な人気を集めた。
のちに吉祥寺「ファンキー」が全国のジャズ喫茶でも希少だった超ド級のスピーカー、JBLパラゴンを導入、大きな集客効果を上げるが、これはその先例といえるかもしれない。
大成功をおさめた野口氏だが、アメリカとの戦争がはじまり、ジャズは敵性音楽とみなされ、営業でジャズのレコードをかけることは禁止されてしまう。
店名も英語は認められず「紅屋(べにや)」と改名した。真夏でもカーテンを閉め、音が漏れないように注意しながら真っ暗な中で親しい仲間たちとジャズを聴いていたという。
やがて当局から「レコードを供出せよ」という命令が下る。三度のメシより好きなレコードをスクラップにされてはかなわないと、野口氏は店の天井裏やトイレの戸棚などあたりかまわずレコードを隠した。
店内だけでは隠しきれず、常連でいちばんの美人だった通称ナンシーという女の子に200枚ほど持ち出してもらい預けた。しかし、戦争という巨大な暴力の前にはなす術もなく、結局はすべてを失ってしまう。
やがて空襲がはじまり店の屋根に爆弾が落ちて、ポッカリ大穴があいてしまった。外から隠しているレコードがまる見えになってしまい、泣く泣く京橋の当局にレコードの山を運んだが、その時の気持ちは今のジャズ・ファンにわかっていただけるだろうか、ラジオを聴いてもジャズはやらない、勿論、テレビがあるはずが無い。生演奏も勿論、この自分の世界から、ジャズという音楽が消え去ってしまうのだ。心の中は真っ暗で、ダンスかジャズかが趣味の私には何をしていけばいいのかわからない位、当惑した。レコードに別れを惜しんで、ポロポロ涙を流したものだ。
今のジャズファンの皆さんは幸せだ。色々な種類のジャズ喫茶に行って好きなレコードが自由に聴ける。
『jazz』1974年 No.22「コーヒーが5円だったころ」野口清一より
野口清一氏のこのエッセイからおよそ40年後のいまでも、日本には 「色々な種類のジャズ喫茶」がある。「絶滅危惧種」と言われることもあるが、それでも数えてあげてみると、まだ全国には約600軒のジャズ喫茶やジャズバーが営業をしている。しかもこれらの店の9割以上はいまだにアナログ・レコードでジャズを聴かせている。
ただ、その多くは会話禁止などではないし、耳をつんざくような大音量で客を圧倒しているわけではない。
ジャズへのこだわり、思いは昔と変わらないが、ときには妥協し、生き残るためのさまざまな工夫を凝らしているのがいまのジャズ喫茶の姿だ。
昔ながらの「ジャズ喫茶の定義」にこだわってみるならば、かつてのスタイルを忠実に守っている、もしくは踏襲しているジャズ喫茶は20軒に満たないだろう。
しかし、好きなレコードやCDが自由に手に入るいま、そんなこまかい定義など、どうでもいいじゃないかと思えてくる。
それぞれが好きなジャズを好きな店で聴けばいい。
珈琲一杯でジャズを楽しめる場所がそこにある。
ジャズ喫茶へ行こう。
[引用文献]
- 『ジャズ批評』1972年Vol.12 「特集 日本にジャズが入ってきた頃」
- 『スイングジャーナル』1978年1月号「ジャズ喫茶今昔物語」
- 『jazz』1974年No.22 「MJLジャズ随筆ノートから⑥ コーヒーが5円だったころ」
[参考文献]
- 『新宿DIG DUG物語 中平穂積読本』高平哲郎編 東京キララ社
- 『ジャズ喫茶リアルヒストリー』後藤雅洋 河出書房新社
- 『ジャズ喫茶論 戦後日本の文化を歩く』マイク・モラスキー 筑摩書房
- 「ジャズ喫茶の文化史戦前篇、複製時代の音楽鑑賞空間」細川周平
- 野口伊織記念館