WHAT IS A JAZZ KISSA? Interview with Masahiro Goto
日本独自の文化であるジャズ喫茶の歴史は約90年に及ぶ。それはアメリカから極東の島国にジャズが伝播した歴史であり、日本人とジャズとの関係を映し出す鏡のようでもある。今年で開業53年目を迎える東京・四谷のジャズ喫茶「いーぐる」は、「絶滅危惧種」と呼んでもいいほどの数少ないジャズ喫茶の正統派だが、今も時代の動きに合わせてアップデートを続ける現役のインフルエンサーでもある。この店のオーナーであり、ジャズ評論家としても数多くの著作を上梓している後藤雅洋に、「ジャズ喫茶とは何か?」について、この店の半世紀の歴史とともに語ってもらった(この記事は『ジャズ喫茶案内』VOL2英語版、「What Is A Jazz Kissa?」からの日本語訳転載です)。
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「いーぐる」とジャズ喫茶の歴史
レコードやCDでジャズを聴きながら過ごせる喫茶店を日本では「ジャズ喫茶」と呼ぶ。ラジオやストリーミングサービスでジャズを流している店はジャズ喫茶ではない。レコードかCDをターンテーブルに乗せて回してジャズを聴かせなければならないのだ。そして再生中の音源のカヴァーを客席から見えるところに提示しなければならない。レコードなら片面全部、CDだとレコード片面ぐらい(長くて25分程度)をかけて、次の音源へと移る。
日本では酒場の店主を「マスター」と呼ぶ習慣があるが、ジャズ喫茶店主も、ジャズの達人という敬意も含めて「マスター」と呼ばれる。マスターがレコードを選び、客はレコードが替わるたびにそれを吟味する。客は自分の聴きたいレコードをマスターにリクエストすることもできる。こうした儀式をなぜ行うのかというと、レコードをかける側も聴く側も、ジャズ喫茶とは「ジャズを真剣に聴く場」と認識しているからなのだとしか説明がつかない。
ジャズ喫茶は世界に類のない、日本独特のカフェスタイルだが、原型まで辿るとその歴史は長い。
日本に初めてジャズが伝わったのは1900年頃とされ、横浜、神戸などの港町で、海外からやってきた船員や、通商のために住んだ外国人たちが酒を飲んだり、歌ったり、踊ったりする飲食店が生まれ、客たちはジャズのレコードをかけてダンスをするようになった。
1920年代には日本人のジャズ・バンドが誕生し、ダンスホールなどで生演奏がされた。そして蓄音機とSPでジャズを聴かせる喫茶店、つまりジャズ喫茶の前身がこのころに東京や横浜などで生まれた。本来ならジャズはダンスホールで生バンドの演奏に合わせて踊りながら楽しむものだったが、ダンスホールの入場料金は高いため、もっと安い予算で、SPでジャズを聴くことができる店として、ジャズ喫茶が生まれたのだ。
日本初のジャズ喫茶は、1929年に東京・本郷赤門前に開店した「ブラックバード」であるというのが定説である。オーナーは野口清一 。
店ではエセル・ウォーターズ、デューク・エリントン、チャールストン・チェイサーズ、ジミー・ランスフォード、ルイ・アームストロングなどの10インチSP盤をかけていたという。当時のジャズ喫茶のオーディオ装置の主流は手動式の蓄音機で、レコードを1枚かけるたびにクランク・ハンドルでネジを巻くというスタイルだったが、野口はシアトルに住んでいた叔父からRCAビクターの「エレクトラ」という、扉のついたマホガニー色の大きな家具調の電動式連奏プレーヤーを送ってもらい、これを店に置いたところ、大変な人気を集めたという。
野口清一は第二次世界大戦後の1960年に東京・吉祥寺に喫茶店「ファンキー」を開業、彼の息子の野口伊織が1966年に経営を引き継いで店舗を改装してからは、当時日本で人気No1のジャズ喫茶だった東京・新宿の「DIG」や「木馬」と人気を競い合い、60年代から70年代にかけてのジャズ喫茶ブームの盛り上がりに大きく貢献した。
第二次世界大戦中は、当時の日本政府がアメリカ文化を排除したためにジャズ喫茶も廃業に追い込まれたが、戦後まもなく、東京、大阪などの大都市を中心にジャズ喫茶が復興する。
そしてジャズ喫茶の存在が全国的に大きく拡がったのは1960年代だった。ビートルズ登場以前の一時期、モダン・ジャズは最先端のカルチャーとして日本の若者たちの心をとらえ、日本中にモダン・ジャズ・ブームが巻き起こった。1961年のアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの初来日を皮切りに、マイルス・デイヴィス、ホレス・シルヴァー、セロニアス・モンクなど、名のあるジャズメンたちが毎年次々と日本にやってきてコンサートホールで公演を行なうようになった。
しかし、彼らの演奏を生で体験できるのは大都市に住むごく一部の恵まれた人にすぎない。ジャズを聴くだけならラジオで間に合うが、海外の第一級の音楽のナマの姿に少しでも近づきたかったジャズファンにとっては、高価なオーディオ装置と大音量再生によって、“まるで目の前で演奏しているかのような体験ができる場”としてのジャズ喫茶の存在は必要なものだった。
そしてジャズ喫茶がライブの疑似体験やジャズ研究の場として機能するためには、たとえそれがたんなるレコードによる音楽再生であっても、会話をせずに黙って鑑賞する態度が客に求められるようになる。それはコンサートホールや映画館、図書館で求められるマナーと同じものだった。このため、店内では会話禁止という、ジャズ喫茶特有のルールが生まれた。
ジャズ喫茶において最初に会話禁止のルールを厳格に守ろうとしたのは、新宿の「木馬」だった。それは1960年代に入ってからのことで、当時「木馬」は日本で一番人気のあるジャズ喫茶とされていた。その後、「木馬」の店主である小沢祐吉から影響を受けた中平穂積が1961年に新宿に「DIG」を開店し、この店から全国に会話禁止のルールが広まっていった。そして「DIG」 は閉店する1983年まで、「木馬」に代わって、日本でも最も影響力のあるジャズ喫茶になる。
「DIG」で会話禁止のルールが生まれたのは店主のせいではない。DIG店主の中平によると、開店当初はこの店では会話を禁止してはいなかった。だが、客同士で、「声がうるさい、静かにしろ」「おまえは何で私にそれを強制するんだ?」といったケンカが増えてしまったからだという。新聞紙をめくる音がうるさいからという理由で客がケンカを始めたこともあったという。このような様子をみて、会話禁止のルールを作ったのだと中平は説明する。
喫茶店で会話しているだけで、なぜそのようなケンカが起きるのか? とても奇妙に感じる人も多いだろう。ジャズ喫茶でそのようなことが起きるのは、当時の日本特有の事情があった。
1960年代のはじめに日本にモダン・ジャズ・ブームが起きたとき、輸入盤の値段は約3000円、当時の会社員の1カ月の給料が約2万円だったので、レコードはとても高価だった。その頃のジャズファンは10代後半から20代が中心で、彼らにはまだ、輸入盤を買えるほどの経済力はなかった。そんな彼らがコーヒー1杯分の予算でジャズレコードを聴くことができたのがジャズ喫茶だった。
ジャズ喫茶では、コーヒー1杯頼めば、聴きたいLPをリクエストして片面を聴くことができた。もう1杯頼めば、もう片面を聴くことができた。お金がなくて家ではジャズレコードを聴くことができなかった若者たちがジャズ喫茶に通った。60年代にジャズ喫茶が日本でたくさんオープンしたのは、こうした事情があった。そしてそれぞれのジャズ喫茶が、より新しいレコードや珍しいレコードを仕入れることを競い合った。
「DIG」で客同士が、声がうるさいといった理由でケンカをしたのには、こうした時代の背景があった。やってくる客のほとんどが、店内で会話をすることではなく、ジャズレコードを真剣に聴くためにやってきたのであった。
かつては会話をすることが禁じられているジャズ喫茶が多かったが、時を経るにつれてその数は減少していき、いま、約600店ある日本のジャズ喫茶の中でそのルールを守っている店は3、4軒ぐらいである。その中のひとつが東京・四谷にある「いーぐる」だ。「いーぐる」の創業は1967年、いま東京で5番目に古いジャズ喫茶である。この店では開店11時30分(土曜、日曜は14時)から18時までは、店内で会話をすることが禁じられている。
「昔は外国からの客が来たときには、はじめに《この店では会話禁止です》と説明する必要があったんですが、最近は、《それは知っている》と答える客がすごく増えたんですよね。どこから情報を仕入れたのか、ほとんどの客がすでにご存知なんですよ」と語るのは店主の後藤雅洋だ。
1967年に後藤マスターが「いーぐる」を開業したとき、彼は20歳で、大学生だった。彼の父親が所有するバーが開店休業状態だったので、そこを少し改装してジャズ喫茶としての営業を開始した。
開業から現在に至るこの53年の間に、後藤マスターは店の経営のみならず、ジャズ評論家としての仕事もこなし、ジャズについての本はこれまでに、単著と共著を合わせて27冊上梓した。また、2014年から2019年までは、隔週で発行するCD付きジャズマガジン「JAZZ 100年」シリーズの監修者をつとめ、そのシリーズでは全部で118冊となり、累計で200 万部を超えるベストセラーとなった。そのような栄光に包まれた彼だが、いまでも毎日、「いーぐる」でスタッフと共に働き、客のためにレコードを回し、給仕を続けている。
後藤マスターが店を始めた頃は、彼もまだジャズについてそれほど詳しい知識を持っているわけではなく、店のレコードコレクションは友人のジャズマニアが推薦してくれたわずか400枚ぐらいだった。それでも、当時はジャズ喫茶ブームがまだ続いていたので面白いように儲かったという。
だが、60年代後半になると、ジャズ喫茶に少しずつ変化が現れてくる。それまでのジャズ喫茶はレコード・コレクションの内容を競い合っていたが、日本におけるオーディオブームが高まってくるにつれ、店のオーディオ装置を互いに競い合うようになる。その先鞭を付けたのが、日本で一番最初のジャズ喫茶オーナー、野口清一の息子、野口伊織だった。伊織は1970年に入ると彼の店「ファンキー」にJBLパラゴンを設置して集客をはかった。当時、日本にパラゴンを置いてあるジャズ喫茶は大阪に1軒、そしてこの「ファンキー」のみだった。これを「ファンキー大作戦」と名付けたジャズ喫茶店主もいた。本格的なオーディオ競争が始まったのだ。
「もちろんその渦中にいましたよ。でも勝負にならないわけ。」と後藤マスターが振り返る。創業時の「いーぐる」はいまの店舗の半分ぐらいの大きさで、スピーカーはJBL LE8T、アンプは国産のLuxのプリメインアンプだった。
後藤:やっぱり、なんといっても、「ファンキー」のパラゴンはとんでもない音でしたね。あれはすごく印象に残っています。100パーセントいい音だとは思わないし、クセがあるけど、やっぱりかなりよかったですね。あと、意外といいなあと思ったのは渋谷の「メアリー・ジェーン」。あの店に出入りしていた連中がテクニクスやパイオニアのウーハーやドライバーを組んで作ったスピーカーで、アンプも日本のメーカー製だけど、ものすごくヌケのいい音がしていました。パラゴンとは全然違う世界だけど、すごく自然でよかった。
いい音とは違うけど、味のある音だと思ったのは、渋谷・道玄坂にあった頃の「ジニアス」。どんな盤をかけてもいい音というわけではないんですが、あそこで聴くウェザー・リポートの「スイート・ナイター」はすごくいい音をしていました。スピーカーは特注エンクロージャーにヴァイタボックスのAK150 、CN157、S2を組んだもので、アンプは日本人の技術者が作った特注の真空管アンプ。低音がすごかった。いわゆるオーディオ的なリアルな音とは違って、すごく色が付いた音だけど、その色がものすごく気持ち良かったですね。
「ファンキー」のパラゴンの音はちょっと真似ができないので、「ジニアス」の鈴木彰一マスターの音や「メアリー・ジェーン」の福島哲雄マスターの音は参考にしました。これらの店で聴いたアルバムと同じアルバムを自分の店に帰ってきてかけてみてチューニングをするんです。ただ、彼らの音に近づこうと思って努力したけど、あっちの方がいいと思う。例えば「メアリー・ジェーン」の音は自然ではないんだけど、生っぽい音がしました。それに比べるとうちの音はJBLの音なんですよ。うちのは「装置の音」なんですが「メアリー・ジェーン」は装置の音がしない。どこのメーカーのものなのか、わからないんですよね。
オーディオ評論家の柳沢功力さんの家に行ったことがあるんですが、いままでに行ったオーディオ評論家の中では彼の家の音が一番良かった。なによりすごいのが、「装置の音」がしない。われわれオーディオ好きは、アルテックの音、JBLの音、マッキントッシュの音とそれぞれのメーカーの音についてのイメージを持っているでしょ、そういう装置の音がしない。柳沢さんはいろんなメーカーのものを使っていて、パワー・アンプは全部違う(笑)。「こんなのでまとまるのかなあ」と最初は思ったけど、聴いてみると思いっきり自然ですごくいい音でした。「あ、もうレベルが違う」と。完全に装置を使いこなしきっている。そして柳沢さんはジャズ、クラシック、歌謡曲、なんでも聴かせてくれたけど、全部いい音でした。
柳沢さんの行き方を見て、こっちの方がかっこいいと思いました。そして僕は悟ったんです。オーディオは本当に研ぎ澄まされた感受性のある人、一部の人にしかできないもので、「自分はこの世界では勝てない、奥が深い」と。僕はある時期に、オーディオに努力を傾けるよりは他のことにした方がいいと思った。そして「ジャズ」なら自分のものにできると思ったし、自信もあったんです。
日本のジャズ喫茶のオーディオ装置は、60年代初めまではスピーカーもアンプもターンテーブルも自作や日本製という店が大半だった。60年代半ばから海外製品を導入するジャズ喫茶が増え始め、70年代以降になると使用するスピーカーはJBLかアルテックかのどちらかに分かれることになる。現在に至るまで、おそらくこの2つのメーカーが占める割合は、すべてのジャズ喫茶の90%ぐらいになるだろう。「いーぐる」は創業時から現在に至るまでずっとJBLを使い続けている。
後藤:僕の高校の同級生にイギリスからの帰国子女がいて、彼の父はオーディオマニアで、日本に帰ってくるときにイギリス製のオーディオ装置を持ち帰ったんです。プリアンプとパワー・アンプはクォード、スピーカーは大きなグッドマン。とんでもなくいい音で、僕が当時秋葉原で買った国産のプリメインアンプとスピーカー、ターンテーブルをつないだセットなんか問題にならなかった。そのとき、やっぱり洋モノはすごいと思ったんです。
そして大学に入ってからすぐにジャズ喫茶やることになって、中学校の隣のクラスメイトだった茂木君の実家に行ったら畳の部屋にJBLオリンパスが置いてあるんですよ。アンプはマランツのモデル7。そこでモダン・ジャズ・カルテットのアトランティック盤を聴いたらとんでもなく音がいいんです。その当時はもう日本のジャズ喫茶には行っていましたけど、当時のジャズ喫茶は音がでかいだけでとんでもなくひどいサウンドでした。迫力はあるけど、なんだかうるさいんですよ。純粋な音というのは大きな音には感じないものですけど、雑音成分を混ぜると同じパワーでも大きく聴こえる。そういうものと比べると茂木君の家のJBL オリンパスは全然ちがうわけですよ。それでジャズ喫茶をやるときは、オリンパスは高くてとても買えないけど、JBLの製品にしようと決めたんです。
僕もやっぱりアルテックにも食指が動いて、アルテックを置いている店にもずいぶんと通いました。でも僕は自分なりに考えたんですが、アルテックはチューニングがものすごく難しいと思った。JBLよりもアルテックの方がツボにハマったらすごくいい音がすると思ったけど、店によってものすごく音が違うのね。JBLはそれほど違いがなくて、どの店もJBLのそれなりの音がするんですけど、アルテックに関してはすごくいい店もあれば、そうでもないのもある。本当にオーディオのテクニックがあってきっちり鳴らし切ったらJBLよりもアルテックのほうがいい音がすると思ったんですけど、自分には技術がないし、難しいと思ったんです。
「いーぐる」のスピーカーは、創業時のJBL LE8Tから1973年までの6年間にJBL ノヴァ、そしてJBLフレアーへと変わる。
後藤:フレアーは、ジャッキー・マクリーンのようなハードバップはいいんだけどウェザー・リポートだとやたらうるさくなっちゃうし、ECMレーベルの盤になると全然ダメなのよね。2WAYシステムなのでウーファーに対するスコーカーの感度を変えることができるので、ウェザー・リポートがよく聴こえるようにチューニングをすると、今度はマクリーンの迫力がなくなっちゃう。
そうした時に4WAYシステムの JBL4343がリリースされたんです。これは、足して2で割ったようにどっちもそこそこいい音で鳴るんですよ。ただチューニングは難しくて、初期の4343は上(中・高域)と下(低域)がバラバラになっちゃうのね。まとまらなくてすごく苦労しました。スピーカーの下の置き台を無酸素銅にするか鉛にするかとか、無酸素銅の内側に何かを貼るかとか。純銅がいいかとかアルミがいいかとか、ひとつひとつ全部やりました。耳の慣れもあるから一週間ぐらい試しみてメモをとる。全部音が違う。ものすごく時間がかかるんですよ。1回に変えるところは1箇所でないとダメなんですよね。気の短い人はスピーカーの下には無酸素銅を入れてアンプの下にはゴムを敷いてなんて、2つか3つをいっぺんに変えるでしょう。気持ちはわかるけど絶対にそれをやってはだめなのね。変化要因が何なのかわからないから。いろんな組み合わせで何回も何回もやるわけですよ。その結果、なんとかまとまるようになりました。
「いーぐるの音」を決めたスピーカー
「いーぐる」のオーディオは1980年に導入したスタジオモニターシステム、JBL4343でその方向性が定まったと言える。JBL4343は1976年に発売され、日本国内で累計1セット(2万台)の売り上げを記録し、ピーク時の販売数量は年間3,000セットを超えた。この異常な売れ行きにアメリカのJBL本社は「日本にはそんなにスタジオがあるのか?」と驚いたという。もちろんJBL4343を購入したのはスタジオではなく一般ユーザーだった。これは日本のオーディオブームが一般家庭に浸透した70年代を象徴するトピックだ。
JBLプロフェッショナル・ディヴィジョンでスタジオモニターシステムを統括し、1970年代から80年代にかけて日本にたびたび来日してセールス・プロモーションを行ったエンジニア、GarryMargolisは、「このスピーカーは原則としては壁に埋め込んだ形で使うことが望ましい」と推奨しているが、「いーぐる」もこのJBL4343を壁に埋め込むようにセットした。
後藤:JBL4343の特性を計測するときに砂漠に穴を掘って埋めてポールを2本立てて、ケーブルをはって、マイクを垂らして測っている絵をオーディオ雑誌で見たことがあります。おそらくJBLは元来スタジオモニターだったので、壁に埋めるほうがスペース・ファクターがいいんでしょうね。もともと「いーぐる」はスピーカーを壁に埋め込むことを前提とした設計をしていて、これは僕の友人の日野原くんが、「あまりオーディオ装置が目立たない店にしたい」と提案して決めたものでした。
最初はタンノイのレキュタングラー・ヨークを壁に入れたんですが、レクタンギュラー・ヨークは色がベージュで家具調なので「いーぐる」の板壁に入れるとほとんど目立たちませんでした。なぜタンノイにしたかというと、その頃はこの店は「ディスクチャート」というロック喫茶で、ブリティッシュ・ロックをかけるならタンノイがいいからという理由でした。そのあと、この店をジャズ喫茶「いーぐる」に転向させたんですが、タンノイだとあまりジャズに合わないということでJBL フレアーに変えたんです。フレアーはちょっと小さいために隙間ができたので板を入れたりしたけど、JBL4343はほとんどぴったりでした。JBL4343は上(中・高域)と下(低域)をまとめるのがものすごく難しかったけど、とはいえ、JBL フレアーやアルテックA7などとと比べると、ウェザー・リポートもECMレーベルもハードバップもそこそこ鳴らせるようにチューニングできました。
後藤:ジャズ喫茶は、自分の趣味や感覚を押し付ける場所ではないと思うんですよ。ジャズ喫茶は、ジャズとジャズファンの間にある媒介なんだから、自分の趣味は置いといて、どんなジャズでもとりあえず客に紹介しないと。良い悪いを決めるのはお客さんですから。たいがいのジャズ喫茶の店主はジャズが好きだから店を始めているわけで、とにかく自分の好きなレコードを選ぼうとします。すると自分の好きなレコードが一番よく聴こえるようなポイントにオーディオをチューニングするわけですよ。例えばズート・シムズが好きだとズートの音がよく聴こえるようにチューニングする。するとやっぱりウェザー・リポートあたりはちょっと按配が悪くなっちゃう。でも本来ならウェザー・リポートもちゃんと聴こえるようにしなきゃいけないと思います。
また、ジャズ喫茶のオーディオはオーディオマニア的な発想でチューニングしてもダメなんです。なぜかというと場所によって全然音が違っちゃうから。オーディオマニアの場合は、聴く人間がおおむね一人なんです。ということはリスニングポイントが決まっているわけ。でもジャズ喫茶はお客さんがたくさんいることが前提なので、一人しか聴いていないのではしょうがないわけだから(笑)。ピンポイントで一番いいところがあったとしても、他のところで聴いてもあまり違和感がないようにする必要があります。
「いーぐる」はオーディオマニア的な聴き方をするとちょっと問題があるのかもしれないけど、店の隅にいても比較的違和感なく楽しめる。部屋が相対的にライブになっていてほかの響きも加わるから、うまく音が回ってくるんです。僕はそのことをものすごく考えました。だからチューニングするときもあっちの隅、こっちの隅、全部の席に座って聴きますよ。
「いーぐる」のオーディオは1995年にスピーカーがJBL4344、パワーアンプがマークレヴィンソン 23.5L 、プリアンプがアキュフェーズ C280Ⅴ、ターンテーブルがヤマハGT2000となり、その後にスピーカーが JBL4344 MarkⅡにアップデートされた以外は現在までこの組み合わせが続いている。
後藤:ジャズはアメリカの音楽だからオーディオ装置はアメリカ製がいいと考えてスピーカーをJBLにしたんですが、スピーカーというのはパワーアンプとセットだと思うので、パワー・アンプもアメリカ製じゃなきゃ絶対ダメだと思っています。日本製品も随分試したけど、あんまり按配がよくなくて、アメリカ製の中では当時はマークレヴィンソン がいいと言われていて使ってみたらやっぱりいいわけ。そこでプリ・アンプですけど、これはジャズ喫茶なのでいろんな音源に対応できるもの、もう少し汎用性があった方がいいんじゃないかと思ったんです。店で使っていて壊れる装置はだいたいプリ・アンプで、パワー・アンプはあんまり壊れない。修理のことを考えると日本のアキュフェーズは信頼性が高く、全然壊れない。
アキュフェーズとマークレヴィンソンって水と油のような組み合わせなのでおかしいんじゃないかとはずいぶん言われました。オーディオマニアが来て「えー?そんな組み合わせですか?」と。しかし、優等生的で破綻のない真面目な美人のアキュフェーズ とコテコテのアウトローなマークレヴィンソンを組むと、色気が出てくるんですよ。チューニングしたらなんとかなるんじゃないのと思って、いろいろ弄り回しているとまあまあの音になりました。ECMもBlueNoteもかけられるし、ウェザー・リポートとジャッキー・マクリーンもかけられる。もう少し言うと、アナログもCDもそんなに違和感なくかけることができるようになりました。
ジャズ喫茶の選盤術
ジャズ喫茶の大きな特徴の一つにレコードを片面ずつかけていくというものがある。例えばある盤の片面(例えばA面かB面)をかけ終わったら、次は別の盤の片面をかけて音楽をつないでいくやり方だ。CDの場合はレコードの片面に相当する時間、約20分程度をかけたら別の盤をかける。レコードの両面をかけないのは、リスナーがその盤に意識を集中して聴くことができるのは20分から長くて30分が限度という経験則から生まれたものだ。後藤マスターが「いーぐる」をオープンした当初、いわば「ジャズ喫茶の選盤術」とでもいうべきものを学んだジャズ喫茶があった。かつて東京・渋谷の道玄坂にはレコードや楽器を販売する「ヤマハミュージック東京渋谷店」があり、ヤマハ楽器が経営するこの店は1966年のオープン以来、最新の音楽情報を求める東京の若者たちが集まる人気スポットだった。この店は2015年に閉店したが、後藤マスターは2週間に一度ぐらいの割合でここで新譜を買い、その帰りにすぐ近くのジャズ喫茶「ジニアス」に寄って、この店の「選盤術」を盗もうとした。
後藤:「ジニアス」ではいつもターンテーブルのブースに背を向けた、レコード・カヴァーが見えない位置に座るんです。カヴァーを見ずに演奏者を当てるためにね。その席で聴いているとすごくいいなあと思うものがかかるので振り向いてカヴァーを見ると「あ、うちの店にもあるやつだ」と。でもかかっているのが、うちの店ではかけないB面だったりするんです。また、同じ面がかかっていても自分の店よりもすごく良く聴こえるんです。どうしてかと思っていたら、あ、と気づいた。かける順序なの。うまい出し方をするわけ。寿司でもトロがうまいからってトロばっかり3個も4個も食ってたら気持ち悪くなっちゃうわけでしょう? だから間に白身の魚を挟んだりするわけじゃない。もっとわかりやすい例でいえば、フランス料理のコースはまったくおなじものでも逆の順序で食べちゃったら気持ち悪い。レコードも順序でいかに美味しく聴こえる出し方をするか、これが技だということがわかったんです。そしてお客さんの顔を見ながらどういう風にレコードをかけていくかにこだわっているということも。そのことを「ジニアス」のスタッフの西室君に言ったら「わかってくれましたか、ちゃんと順序を考えていますよ」と。鈴木マスターも「それがジャズ喫茶の技なんですよ」と。
「ジニアス」のマスター、鈴木彰一は1960年代には新宿のジャズ喫茶「DIG」でレコード係を務めていた。「DIG」は「ジャズ喫茶は会話厳禁ルール」を全国に広めたのをはじめ、常に時代の最先端のジャズをかける店として、全国のジャズ喫茶の模範であり目標となった店だった。「ジニアス」は1989年に渋谷から中野新橋に移転して今も営業を続けており、鈴木マスターも健在だ。鈴木はメインストリーム・ジャズからアヴァンギャルド・ジャズまで造詣が深く、レコードコレクターとしても名高い。
後藤:それで僕も「ジャズ喫茶の技」を盗もうといろんな店に行ったけど、ちゃんとやっているのは「ジニアス」ぐらいでした。もう一つ参考にしたのは同じ渋谷の「メアリー・ジェーン」。「メアリー・ジェーン」は「ジニアス」よりもレベルがさらに一つ上なのね。福島マスターの動物的な感覚でデューク・エリントンをかけた後にヨーロッパのアバンギャルドをかけるとか、普通ならうまくつながりっこないんだけど、彼がやるとうまくハマるんです。これは天才的な彼の感覚ですね。僕は、これは絶対に真似できないと思いました。
「メアリー・ジェーン」は現在も続く渋谷の大規模再開発計画のためにテナントビルが解体され、2018年に閉店した。1972年にオープンしたこの店は前衛ジャズもかける希少な店として注目と人気を集めた伝説のジャズ喫茶だ。この「メアリー・ジェーン」や「ジニアス」から学んだことをもとに後藤マスターはレコード4枚をひとつのセットとして音楽の流れを作る独自の選曲システムを考案する。レコード片面の演奏時間が平均して約20分として、4枚をかける約90分間をあたかも一つのドラマのように構成して聴かせるのだ。この約90分という長さはジャズ喫茶の客の平均滞在時間とほぼ同じだ。
後藤:最初の1枚目はキャッチーなものから入ります。アメリカのラジオ番組のDJが呼びかけるSTAY TUNEDと同じ。つまり番組がはじまったらそれを変えさせないために、まず一発目にバチーンとカマさなきゃだめなんです。それには3管ハードバップがいいんですよね。アート・ブレイキーなんかをバーンとやる。だけどさ、そんなものばっかりやっていても疲れるわけだから2枚目は楽器編成を変えて、例えばソニー・ロリンズのテナーサックスの1管だけでじっくり聴かせるとか。そして3枚目は1枚目、2枚目とはぜんぜん違うものをかける。“ティン・パン・アレー”の楽曲によくあるAABA形式と同じで、AAの次にまたAときたらいつまでもおんなじなので、そこでBというブリッジが必要なわけですよね。ビッグバンドでもいいしギターでもオルガンでもいい。それで色が全然変わるから。場合によってはエレクトリック・ジャズでもいい。最後の4枚目、AABAのAは、ピアノ・トリオで締めくくると収まりがいい。わかりやすいでしょう? 簡単な原理ですよ。なんだ、そんなことかと思われるかもしれないけど、実際にこれをやってみるとね、簡単にキマるんです。
後藤マスターは、ミュージシャンに対する世間の先入観を裏切る、そのラベルをあえてはがすような選曲も必要という。
後藤:簡単にいうとね、耳で選んでいるんですよ。ラベルで選んでいるんじゃなくて。僕は本をたくさん書いているからジャズ評論家として区分されることも多いけど、いわゆるジャズ評論家とは全然立ち位置が違うと思う。何に一番近いかというとDJなんですよね。もっとわかりやすくいうと編集者なんですよ。ミュージシャンとファンの間に立ってどういう風にジャズを伝えるかということが僕の仕事。ジャズ評論家は文献的考察を語るみたいなところがあって、そういうことを書くとわかりやすいし説得力があるけど、ジャズ喫茶のマスターの選盤術は、そういうのはまったく意味をなさないわけ。ジョン・コルトレーンがどんな人だとかは関係ないわけ。音を聴いてどんな感じかがすべてなんですよ。DJのサンプリングと同じで、素材として盤を選んでいますから。
例えばジョン・コルトレーンとそれに縁のある人や事柄で盤を選んでつなげていくという行為は、彼についての知識がないとできないですよね。また、聴いているお客さんだって、ジョン・コルトレーンについてある程度知っていなければ面白さが伝わらない。でも僕は、そういうことは一切考えないでつなげていくんです。コルトレーンについてなんの知識もない人に「ああ、面白い選曲だ」「ああ、気持ちのいい選曲」だと感じさせる、これが、プロフェッショナルなんです。僕はそれを目指している。だから、何となくジャズ喫茶に来て、何となくここって気持ちいいと感じてもらえて1時間半や2時間過ごしてくれたら、そのほうがかっこいいじゃない? そういう場を作るほうが実はむずかしいんですよ。僕にはそれをやっている自負があります。
うちの店の選曲係には「アルバムの最後の1曲になったときに次の曲のアタマが鳴らないようだったらダメだよ」と言っています。ジャズ喫茶を始めた20歳の時から「ジニアス」の鈴木マスターや東京・高円寺にあった「毘沙門」の本間敏尚マスターには鍛えられました。本間さんは僕と同じ歳ぐらいだけど、「後藤ちゃん、アタマに何枚ぐらい入ってる?」ってよく言われました。どういうことかというと、頭の中にレコードの出だしの音がね、何枚記憶されているかという。彼は「俺、頭に5千枚入ってる」と言うの。僕だってやっぱり、5千枚はいかないかもしれないけど2千や3千枚は頭の中で鳴るものね、ちゃんと。そのぐらいじゃないとジャズ喫茶はできないですよ。
時代とともに変わるジャズ喫茶
ジャズ喫茶の人気を支えてきた要素の一つに「リクエスト」というシステムがあった。昔は客がオーダーすると「リクエストカード」が1枚渡され、客はそこに聴きたいレコードの名前とサイドの面(A、B、C、Dなど)を書き込み、それをウエイトレスに渡した。リクエストが多いときは順番に待たされた。また、リクエストを受けたマスターが、その盤が最も効果的に聴こえるように、何枚かをかけたのちにその盤につなぐという「技」も多くの店で行われた。
後藤:60年代や70年代はレコードがまだ珍しいからジャズ喫茶はリクエストを受けつけなきゃいけなかったんですが、今はね、そういう時代じゃないんですよ。ストリーミングなどで昔の幻の名盤もほとんど聴けるわけですから。強いていえば、ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビイ」をいいオーディオ装置で聴きたいとリクエストされたら、それはわからないわけではないんだけど、例えばその時にエンリコ・ピエラヌンツィの「プレイ・モリコーネ」がかかっていたらその後に続けて「ワルツ・フォー・デビイ」をかけるのはタルいでしょう。この2枚をつなげて40分ぐらい流して果たしてそれがいいのか。
それからうちの店は広いから常時3人か4人のお客さんがいます。これは大事なことですけど、リクエストするのはどういう行為かというと、自分の好みを他の客にも押し付けていることなんですよね。リクエストはその場にいる人間に自分の趣味を押し付けていることになる。ジャズ喫茶のマスターはお客さん全体に対して責任を持って選曲するけど、お客さんはそこまで考えてはいないですからね。すべてのお客さんに対して責任を持って選曲するということで、うちの店は数年前からリクエストを受け付けるのはやめました。そしていまは客層が昔とは変わってきていて、リクエストはせずに、ある流れの中で音楽を楽しむことに変わっているわけですから。いまのお客さんはもっとクールである種のフラットなジャズの空間を好ましいと感じでいるわけで、うちの店のやり方が受け入れられていると思います。もちろん、店主も客も自分の趣味にこだわる世界があってもいいと思いますが、それは新しいファン層を獲得するにはちょっと古いんじゃないかな。
かつてはジャズ喫茶を象徴するシステムだった「会話禁止ルール」がいまも守られているのは「いーぐる」も含めて日本にはほんの数店しかない。また「いーぐる」のように会話ができないほどの大音量でジャズを流す店もめっきり少なくなった。その点で「いーぐる」はジャズ喫茶の伝統を守る正統派の店である。しかし、これはよく誤解されることなのだが、日本のジャズ喫茶は昔から「いーぐる」のような店ばかりだったわけではない。何十年も昔から、ジャズを聴きながら踊る店もあったし、普通の喫茶店と同じように客が会話を楽しむことのできる店もたくさんあった。また、ハイセンスな飲食メニューや居住空間で客の心を掴む店もある。つまり、ジャズ喫茶とは元来多様性に満ちたものであり、一つの定義には収まりきらないものなのだ。ただ、すべての店に共通している流儀がある。それは、いま店で流している音源のカヴァーを客の見える位置に必ず掲げることだ。これは音楽と音楽家に対するリスペクトを示す行為だ。「いーぐる」のような正統派が絶滅危惧種となっている現状でもこの流儀だけはどの店でも守られている。
後藤:今はジャズ喫茶の性格というのも変わってきていると思います。ジャズのマーケットは明らかに違うディメンションに入っていて、幅が広く、敷居が低くなっています。60年代から80年代のジャズ喫茶は、普段は珍しいアルバムを聴けない人や大音量で聴けない人が来るところとか、ジャズという高尚な音楽を勉強するところ、みたいな役割がありましたが、今は全然違ってしまったと思うんですよ。ジャズのマーケットが、みんなが思っているよりももっと広がっていると思います。これは自分が小学館の「JAZZ 100年」シリーズのプロジェクトをやって本当に感じたことです。あのプロジェクトはCD付きマガジンを全部で280万部発行し、何億円という規模の売り上げでしたから。今のジャズのマーケットは昔とは全然違うと思います。むしろジャズ関係者のほうがジャズって特別なものだと思い込んでいるんじゃないですか?
ジャズ喫茶に来る人もジャズに特別な関心があるわけではなくなっています。うちに来る客の半分以上はランチを食べることが目的で毎日のように来ているけど、昔はジャズをBGM 的に聴くというと悪いイメージがありましたけど、別にそれでもいいじゃないかと僕は思うし、それでもちゃんと聴く人はちゃんと聴くんですよ。ジャズにまったく関心がないかというと、ふとカヴァー・ジャケットを見にきたりする。去年の4月から6月の間はCovid19の影響で大変だったんですけど、最近は客層がガラッと変わり、若い人がすごく多くなりました。ジャズ喫茶は会話禁止というスタイルが感染予防になるせいか、いまの状況に合っているのかなあという気がします。また、うちの店とも関係の深い柳樂光隆という若いジャズ評論家が「JAZZ THE NEW CHAPTER」という、新しいジャズを紹介する本を2014年からほぼ毎年1冊出版して、日本の若いジャズファンにとても大きな影響力がありますけど、彼が自分のことを「ジャズ喫茶で育った」とよく語っていることも今の日本のジャズ喫茶人気につながっていますね。それからもちろん、「ジャズ喫茶案内」の影響もありますよ。(了)
取材、撮影、文*楠瀬克昌
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