ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶になったのか

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「ジャズ喫茶」という呼び名がいつから始まったのか。どうやらいまだにこの問いに対する明確な答えはないようだ。しかし、いま手持ちの資料をもとに、できうる限りこの謎の解明に近づいてみたい。

ジャズ喫茶の始まりは、1929年(昭和4年)に東京・本郷赤門前に開業した「ブラックバード」からというのがほぼ定説となっている。

おそらく、その前にも蓄音機でジャズを聴かせる喫茶店はあったと思われるし、実際、大正時代末期の横須賀に「白樺」というこの町のジャズ喫茶第1号とでも呼ぶべき店があったと書き記したものもある(『ヨコスカ・ジャズ物語』太田稔著 神奈川新聞社刊)。

横須賀に限らず、海外のモノや文化がいちはやく入ってきた都市、たとえば神戸のようなジャズの生演奏の盛んだった港町にもそういう店があったとしても不思議ではない。

だがバンドによる生演奏よりも再生装置やレコードの品揃えにこだわり、ジャズ・レコード鑑賞を目的とする客を対象とした店として記録が残されているものとなると、東京や横浜に集中しており、やはり「ブラックバード」や同じ年に新橋に開業した「デュエット」、その数年後に続いた下谷「アメリカン茶房」、浅草「ブラウンダービー」、京橋「ブランズウィック」、銀座「ゆたか」、横浜「ちぐさ」、「メーゾンリオ」、上野「ヤンキー」、新宿「マド」などがジャズ喫茶のはしりということになるだろう。

しかし、ここまで挙げた店の当時の広告などを調べてみると、どの店も「純喫茶」「純正喫茶店」「喫茶店」などと称していて、「ジャズ喫茶」という看板を掲げていた店は見あたらない。

唯一の例外は新橋の「ダット」だ。戦前の洋楽がご専門の音楽評論家・毛利眞人氏所蔵の資料、雑誌 『ダンスと音楽』の1938年8月号を拝見させていただいたことがあるが、そこに掲載されている同店の広告には「近代ジャズ喫茶の最高峰」という文句が書き込まれていた。

「ダット」という店は、油井正一によると、ジャズが敵性音楽とみなされた戦時中、〝脱兎のごとく〟一夜にしてジャズ喫茶から浪曲喫茶に鞍替えしてしまったというエピソードで知られる店だ。この「近代ジャズ喫茶」という宣伝文句には、おそらく、この広告よりも10年ほど前から開業していた「ブラックバード」などの初期ジャズ喫茶群とは一線を画すニューウェーブであり、新世代的な特色を備えた店であることを自負する意図も含まれていたのではないだろうか。

『ダンスと音楽』は、神田神保町にあった中古レコード屋「リズム社」の常連客だった榛名静男が戦前から戦後の長期にわたって編集長を務めた雑誌で、当初は社交ダンスのステップの解説などを中心にタンゴ、ジャズなどを扱っていたのだが、1938年ごろからリズム社店主の村岡貞夫を中心にジャズ関連記事に大きく誌面をさくようになり、戦争で発行を中断するまではジャズ情報誌の色合いを強めていた。

『ジャズ昭和史』(油井正一著 行方均編 DU BOOKS刊)によると、村岡はリズム社にやってくる客の中から見込んだ相手に原稿を書かせていたそうで、河野隆次、池上梯三、そして油井正一がデビューしたのがこの雑誌である。

おそらくジャズ・マニアの間では「ジャズ喫茶」という呼び名はすでに戦前から存在していたのだろう。しかし、関西大学社会学部永井良和ゼミのホームページにまとめられている「昭和戦前期ダンス・音楽関係目次総覧」には、戦前にジャズ関連記事を掲載していた『ダンスと音楽』や『ザ・モダン・ダンス』などの各号の目次を読むことができるが、これをチェックしてみても、ジャズ喫茶に関連した記事を示すものはみあたらない。『ダンスと音楽』1937年8月号の「音楽喫茶店自慢話」や『ザ・モダン・ダンス』1938年11月号の「レコード喫茶店曰く」という、ともに1ページのコラムらしき記事のタイトルがみとめられるぐらいだ。さまざまな文献をあたってみても、当時はジャズを含む外来音楽のレコードをかける喫茶店を「レコード喫茶」と呼んでいたのが一般的なようである。

私がいま知る限りでは、「ジャズ喫茶」という造語は、戦前からすでに生まれてはいたものの、これが本格的に流通を始めたのは、どうやら戦後になってからのようである。

空前のジャズ・ブームがもたらしたもの

終戦直後の1945年8月に営業を再開した京橋の「ユタカ珈琲店」をはじめ、1940年代後半には戦前に営業をしていたジャズ喫茶が次々と復帰した。これらの店はレコードによるジャズ鑑賞を目的とする、戦前のスタイルを踏襲するものだった。

しかし、1953年に訪れた「空前のジャズブーム」によって状況が変わってくる。きっかけは1952年に突如来日して日劇で大成功を収めたジーン・クルーパ・トリオだった。

このときのジーン・クルーパ、チャーリー・ヴェンチュラ、テディ・ナポレオンによるオールスター・トリオを真似て、当時の人気ジャズメンによるスーパー・バンドを作ろうと結成されたのがジョージ川口、松本英彦、小野満、中村八大の4人からなる日本人バンド、「ビッグフォー」だった。これがジャズ・ブームの火をつけたのだ。

ビッグフォーは戦後のジャズ・ミュージシャンとしてはかつてない大衆的な人気を集め、コンサートは常に満員、ダフ屋が現れて入場料は二倍、三倍にハネ上がった。

ジョージ川口によると、当時はギャラをその場でキャッシュでもらっていたため、浅草国際劇場で公演をやったときにはポケットに入りきらないお札をステージにバラバラと落としながら演奏したという。

そんなジャズ・ブームのさなかの1953年9 月、東京・銀座に「テネシー」が開業する。「ジャズ喫茶」という名前が世間一般に広く知られるきっかけとなる店である。

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『アサヒグラフ』1954年1/27号「ジャズの音に酔う」

「テネシー」開業5カ月後の1954年の『アサヒグラフ』1月27日号には、「ジャズの音に酔う」というタイトルで同店の取材記事が見開き2ページにわたって大きく取り上げられている。高級誌だった『アサヒグラフ』が飲食店の紹介にここまで紙数をさくのはたいへん稀だ。いかに新しい風俗として注目されていたかがわかる。当時の雰囲気をよく伝えている記事の全文を以下に抜粋してみよう。

〝本邦最初のジャズ喫茶店〟と銘うったしゃれた店が東京銀座に出現——レコードでなく、生のジャズを堪能するまで楽しめるというので、ティーン・エイジャーどもが日ごと夜ごとに押しかけて門前市をなす盛況。店内にしつらえた舞台で、一流から二流どころのジャズ・バンドが三十分おきにホット・ジャズを演奏するといった仕組みになっているが、コーヒー一杯分の料金で数時間ねばり、心ゆくまでジャズに酔えるというのだから、若い人にうけるのは当然。昨年九月末の開店から、日に約千人のお客が出入りして、デフレの憂鬱などふつとばしている。数多い銀座の喫茶店のなかでも、忽ち一流どこになった。「材料を吟味して、いいものを使っているし、バンドや従業員の支払いもかさむので、その割にはもうかりません」とはいうものの、それでも店主はエビス顔でござる。

記事冒頭に〝本邦最初のジャズ喫茶店〟とあるが、前述の「ダット」の広告を除くと、「ジャズ喫茶」という言葉が印刷されたものは、この『アサヒグラフ』の記事より前のものを筆者は見たことがない。

「テネシー」の営業時間は正午から午後11時まで、店内の広さは約45坪で席数は約140。コーヒーは1杯100円、菓子1個70円で、普通の喫茶店の2倍の値段だったという。

しかし、それまで銀座の一流ナイトクラブやチケットの高い日劇や浅草国際劇場でしか聴けなかったジャズの生演奏がコーヒー1杯で聴けるというのは、たいへんな魅力だったに違いない。

「テネシー」が開店する以前、1940年代後半から朝鮮戦争特需に沸いた50年代前半までは、日本人ジャズメンは一流ナイトクラブで大いに稼いでいた。「銀馬車」をはじめ、「モンテカルロ」「クラブチェリー」「スタークラブ」「黒バラ」など、そのほとんどは銀座に集中していた。

戦後最初のトップ・ジャズバンドだった「ゲイ・セプテット」のリーダーであり、フィリピン国籍から帰化して長らく日本ジャズ界の大御所として活躍したレイモンド・コンデによると、1949年にジョージ川口を自分の楽団のメンバーに引き抜くときにはジョージに38万円もの大金を支払ったという。

当時の大卒銀行員の初任給が3,000円程度だったから、まさにケタ違いの稼ぎぶりだ。

コンデによれば「カバンにお札三千八百枚詰めた」(前出『昭和ジャズ史』より)そうだが、奇想天外な虚言を吐くことで知られるジョージ川口と違ってこの証言の信憑性は高い。

しかし、そのコンデによると、朝鮮半島で休戦協定が結ばれ、特需景気が冷えこみはじめたころから超一流クラブは「潮の引くように生バンドをエレクトーン演奏やらに取りかえ始めていた」(『昭和ジャズ史』)という。

コーヒー1杯の廉価でジャズの生演奏が聴ける「テネシー」の登場は、このような経済情勢の変化と関係していたに違いない。

モダン・ジャズ・ブーム以前、50年代の東京のジャズ喫茶を数多く取り上げている『東京下町JAZZ通り』(一季出版)の著者の一人、林順信氏によると、「テネシー」に出演していたジャズバンドは、上田輝雄とシックス・レモンズ、池田操とリズム・キング、渡辺晋とシックス・ジョーズ、鈴木章治とリズム・エース、ジョージ川口、そして若手の西条考之介とウェストライナーズ、沢田駿吾のダブル・ビーツ、八木一夫トリオなど、女性ヴォーカルはマーサ三宅、新倉美子、丸山清子などだった。

メイン司会はいソノてルヲで、サブMCの大橋巨泉はステージでバブスキャットなどで歌うこともあったらしい。黒人客もよく来ていて、彼らは通路で踊り出したり、また来日中のドラマー、J・C・ハードが飛び入りでドラムを叩いたこともあったという。

この「テネシー」に続いて「不二家ミュージック・サロン」「ACB(アシベ)」「美松」といった生演奏を聴かせる「ジャズ喫茶」が銀座に次々とオープンする。しかし、ジャズ・バンドが人気を集めていた時期は短かく、油井正一によると1954年頃からはもう下り坂になったという。

「テネシー」や「ACB」「美松」などがふたたび脚光を浴びたのは、1958年の爆発的なロカビリーブームだった。

平尾正晃やミッキー・カーティス、山下敬二郎、ジェリー藤尾らがこれらの店でロカビリーを演奏するようになっても「ジャズ喫茶」という呼び名が変わることはなく、50年代末から60年代にかけては、クレイジー・キャッツをはじめ、水原宏、坂本九、橋幸夫、森山加代子、和田アキ子、そしてザ・スパイダーズやザ・タイガースなどのGS(グループサウンズ)が出演し、芸能界への登竜門的なライブハウスとしての場へと変わっていった。

こうした「ジャズ喫茶」は、大阪「ナンバ一番」や京都「ベラミ」など全国各地にあり、客の大半がティーンエイジャーで風紀が乱れがちであったことから、不良の遊び場としてのジャズ喫茶のイメージが、この頃から世間一般の認識として強くなっていった。

アメリカのグラフィック誌『LIFE』のインターネットサイトのギャラリーに、東京オリンピックで盛り上がる1964年、「ACB」で演奏する東京ビートルズの貴重な写真がアップされているが、ロカビリー人気から復活した「ジャズ喫茶」が、もはや創業当時のジャズを聴いて楽しむ場とはかけ離れたものに変貌している様子が見事に記録として残されている。→「Teenage Wasteland :Portaits of Japanese Youth in Revolt,1964」

「テネシー」は1964年の春に、銀座から神田小川町に移転、「テネシー・モダン・ジャズ・ルーム」と名乗り、営業形態も少し変えている。午前12時から午後5時まではモダン・ジャズのレコードをかけ、その後は夜の部として専属バンドを中心に生演奏をやっていたようだ。それがいつまで続いたのかは不明。

ちなみにもう20年近い前のことだが、筆者は「テネシー」という名の銀座のクラブに一度だけ行ったことがある。八丁目あたりの、クラブがたくさん入った雑居ビルの中にある小さな店だった。ギターで弾き語りをするシンガーとフィドルやアップライト・ピアノを弾く初老のおじさんの2人によるハウスバンドがカントリー&ウエスタンの生演奏をやっていた。

常連だった知人に連れていってもらったのだが、〝友人割引〟で安くするからと言われてはいたものの、ビール小瓶1本を飲んで1時間ちょっと座ったぐらいで1万5千円ほど支払った記憶がある。古ぼけた昭和のスナックという趣の店だったが、「会長」と呼ばれていた老人の男性客がテレビのCMなどでよく知られる大企業の人だったりして、さすが銀座のクラブと感心させられた。その「テネシー」が、「銀座のジャズ喫茶テネシー」と関係があったのかどうかはわからない。

 混沌とするジャズ喫茶

先に挙げた『アサヒグラフ』のジャズ喫茶特集より1年ほど経た1955年には、「ジャズ喫茶」が当時の若年インテリ層の興味をひく風俗となっていたことを示す資料がある。河出書房の月刊総合誌『知性』の1955年5月号に掲載された「近ごろ東京ジャズ喫茶みてある記」という記事だ。

『知性』1955年5月号
『知性』1955年5月号(河出書房)「近ごろ東京ジャズ喫茶みてある記」岡部冬彦

三木清、豊島与志雄、中島健蔵を編集顧問に1938年に創刊、三木清の「哲学ノート」などを連載して知識人、教養人の支持を得ていた『知性』は、戦時中の一時休刊を経て1957年まで発行され、戦後は高学歴層、なかでも20代の社会人をコアターゲットに政治、社会、文芸、アート、スポーツ、娯楽までを幅広く取り上げる総合雑誌として展開していた。

4ページにわたるこの「ジャズ喫茶みてある記」を取材、執筆したのは漫画家の岡部冬彦。当時32歳で読者よりもやや歳上の兄貴的な存在の彼が、最新の若者風俗を覗いて冷やかすという趣向だ。

記事の書き出しは、銀座「テネシー」らしき店のバブル人気にふれたところから始まる。

ナマのジャズを聞きたいが、キャバレーやナイトクラブへ行くんじゃゼニがかかってしょうがない。ジャズコン(サートは略す)はいつでもやってるわけではない、という若きジャズファンをネラって金もうけを企んださる御仁が、西銀座にナマのジャズ演奏つきの喫茶店を開いたところ、これが大当りで笑いが止まらないくらいの入り、そこであちこちにジャズ喫茶なるものが続出した。普通の喫茶店なら五六十円のコーヒーが百円というのが通り相場、四五十円がジャズの聞き賃というわけだが、ネバれば開店から夜中までブンチャカ、ブンチャカを聞けるから決してお高くはない。(中略)その上、通なる人にいわせれば、ホールやキャバレーなどでは聞けないリアルジャズをやるのでコタエられないんだそうである。コマーシャルジャズとは踊れるジャズ、リアルジャズとは踊れないジャズというくらいしか知らない当方としては、何がコタえられないのか判然としないがとにかく行ってみようではないか、ということになったのである。

「コマーシャルジャズとは踊れるジャズ、リアルジャズとは踊れないジャズ」という岡部の言い回しの鋭さに驚かされるが、ここから岡部は、1日をかけて新宿東口の武蔵野館の裏手の「グランド春」、銀座・みゆき通りの「白馬車」、東銀座・旧三原橋近くの「ブルーシャトウ」の三軒をまわる。いずれも初訪問のようだ。

新宿の「グランド春」は、1階がキャバレー、2階がナイトクラブ、3階がミュージックサロン、4階がビアガーデンという大きな建物で、ジャズの生演奏をやっていたのは3階のミュージックサロンだった。

岡部によると日劇小劇場ぐらいの大きなハコで450席ぐらいはありそうだという。しかし岡部が訪れた日はわずか6人程度という客の入りだった。

店のボーイが「エへヘ雨の日はどうも」といいわけをするが、入りの悪い原因はそれだけではなかったようだ。この日、ステージで演奏していたのは秋吉敏子。サックス、ベース、ドラムスを従えたカルテットだった。

岡部が取材前に事情通に聞いた話によると、新宿は他の盛り場と比べると「進歩的」で、保守的な銀座、新橋とはずいぶん客層が違っているらしく、岡部も「プログレッシブなスタイルの演奏」を期待していたようだ。

この日の秋吉敏子カルテットのようなシリアスなモダン・ジャズは、ライブを聞かせる当時のジャズ喫茶の中では異質だったようで、岡部の調べによると、「グランド春」でも別の日にはバッキー白片とアロハ・ハワイアンズなどが出演していた。

岡部が訪れたときも、店に来ていた他の客たちは「黒いスカートに赤いブラウス、ポニーテールのハーフの女の子」といった様子で、どうもこの秋吉敏子カルテットだけが場違いにモダンだったようだ。

マイルス・デイヴィスの何とやら、誰とかのザッツ・ウェル(筆者注:おそらくリチャード・ロジャース作曲の『ゾウ・スウェル』)などとホンマのジャズを次から次へと、広さと人数に比べて気の毒になるくらいの熱演であるが、こちらは後の方の暗いところにいるホモらしき男の二人づれが気にかかってしかたがない。

「ではこのセットの終わりに誰とやらの何とやら」ズダズダパッパーと終わると楽士さんの二三人はカウンターで水飲んだり、お客の机に来たりである。お客が友達であり、役者もまた「ヤァヤァ」の仲間であるところが他にない気安さ、親近感があり、むずかしくいえばとかく封建的になりやすい芸人の中ではジャズ屋は明るく、それだけ若い世代に好まれるのであろう。

それにしてもこの入りでは商売にならない。

「秋吉さんはジャズしかやらないのでよくクラブを首になった。仕事があまりなく、あっちこっちで演奏したが、結局仕事がなくなり、解散したり、また一緒に演奏したりのくり返しだった」。これは、1951年、高校を卒業するなり宇都宮から上京し、1953年に秋吉のグループ「コージー・カルテット」に誘われた渡辺貞夫の言葉である(『ぼく自身のためのジャズ』渡辺貞夫著、岩浪洋三編、荒地出版社より)。

同書を編集した岩浪洋三は、四国・松山に住んでいた学生時代から秋吉と文通し、東京に訪ねたときには秋吉グループの公演をずっと追いかけていて、1954年の夏に秋吉を通して渡辺貞夫を紹介された。

岩浪は同書で「コージー・クァルテットの演奏は、ビ・バップから抜け出たものであり、マイルス・デヴィス九重奏団による『クールの誕生』やMJQの一連の演奏に注目し、グループ・サウンドの重要性をしきりに説いていた」と書いている。

岡部冬彦の「グランド春」の描写は、当時最先端のモダン・ジャズと格闘していた秋吉敏子が置かれていた状況をよく伝えるものだ。

秋吉敏子の「コージー・カルテット」は1956年3月に秋吉がバークリー音楽留学するまでは彼女がリーダーで、秋吉の渡米後は渡辺貞夫が引き継ぎ、ピアニストに新人の八木正生を迎えて58年まで活動を続けた。渡辺貞夫が率いるコージー・カルテットもまた、秋吉のスピリッツをそのまま継承するものだった。

秋吉さんが渡米して、自分でバンドをもった時は、みんなに給料を払うと、月に千五百円くらいしか残らなかった。バンド・リーダーのつらいところだが、それでもポピュラーはやらないで、ジャズだけをやっていた。それでよくクラブを首になった。流行歌は絶対やらないし、お客がリクエストしても演奏しないから、首になるのが当然だった。だから質屋にもよく行った。渋谷のM&Wで演奏していた頃は、一晩やって百円か三百円にしかならなかった。ほんとうにあの頃はコッペパンやコロッケパンを買って暮していた。

『ぼく自身のためのジャズ』(渡辺貞夫著、岩浪洋三編、荒地出版社より)

当時のジャズ喫茶のコーヒー1杯の値段が百円程度だったから、一晩のギャラが百円か三百円というのは相当にキツい。

1955年に岡部冬彦が新宿東口の「グランド春」で見たときには、渡辺貞夫もいたかもしれない。だが記事には秋吉以外のミュージシャンの名前が出てこないので詳細はわからない。この頃の渡辺貞夫はまだ一般には無名といっていい存在だった。

「グランド春」を後にして岡部は銀座へと向かい、「白馬車」「ブルーシャトゥ」の2軒を訪ねる。

「白馬車」は文芸春秋新社の社屋の前の6階建てビルを改造したもので、「ビルの全面を丸く凹んだ白黒のタイルではりつめ、一枚のガラスドアが入り口、その両側にはロココ風のブロンズの彫刻をおっ立て、その前に人影立つやと見ると月給一万五千円(ぐらいは払ってるのがこのごろの純喫茶ではアタリマエ)の美少女がサッとばかりに扉を開ける。すぐ百円ナリのコーヒーを買わされるところはジャズ喫茶ナミのエゲツなさだが、その他はたいしたもの、藤色サテンをはりつめた壁、ウラに電燈をしかけたルイ王朝風のスティンドグラスetcであるからまずジャズ喫茶としてはトップクラスであろう。中二階と二階の間にある張り出し(一・七五階ぐらいの見当)ではボソボソとヴァイオリンを弾き、アコをなぜ、御婦人が唄っとるが、来ているお客も商談、要談、銀ブラアベックの休憩で音楽を聞いているのは一人もいない。目下は三階までだが、それでもエレベーターがあり、夏頃には六階まで喫茶店になるという。

戦後まもなく銀座に一流ナイトクラブの「銀馬車」そして「金馬車」がオープンするが、これらは戦前に日本最初期の大型ダンスホールとして知られた「ボールルーム・フロリダ」の支配人津田又太郎が経営する店で、「白馬車」というネーミングはそれにあやかったものだろう。この店の経営者も津田だったのかはわからない。店名も造りもゴージャスだが、クラブではなく、喫茶店であったところがこの時代を反映している。

『東京下町JAZZ通り』(一季出版)で林順信はこの〝超豪華音楽喫茶「白馬車」〟について次のように書いているが、たしかに「白馬車」は、ジャズ喫茶というよりもタンゴを聴かせる喫茶店として知られている。

約10センチ四方の真白い花模様の化粧板で六階すべてを飾り、内部は地下一階から四階まで中央部を吹き抜けとして舞台がせり上がり、下りるという凝りように、さすがの銀座っ子も度肝を抜かれた。桜井潔とか早川慎平などポピュラー音楽のナマを聴きながらコーヒーをすするという趣向。藤沢蘭子などがタンゴを歌っていた。

店の雰囲気にあまり馴染めなかったらしい岡部は、「白馬車」をあとにして東銀座の「ブルーシャトウ」に向かう。

「ロマンス・キャンドル・ジャズ喫茶」と銘うったブルーシャトォの場所は、ちょうど昔の三十間掘の水中あたり、掘の埋立地の地下室だからである。百円のコーヒーはどこでものキマリだが、二人二百円、三人、四人は二百円で買わされるローソクが燃えつきるまでが一時間、これが当店独特のシカケになっておる。ヒルマはサービスデイで六時までは消えない大ローソク、平服のGIらしき毛唐もまざった二十歳位の男女で、ザッと三分の二の入り(後略)」

岡部が訪ねたときに出演していたのは、お揃いのスーツを着たハワイアン・バンドだった。

「サァ私たちも大分このステージから皆さまと親しくなったようですから、次に変わった曲をお聞かせいたしましょう。椰子の葉をぬって紺ペキの青空から響いて来るチャペルの鐘の音をスティールでお聞かせする曲。キンコンお昼ですヨ。カンコンさぁ夜ですヨ、お休みなさい。あの皆さまよく御存知のベルの音をテーマにしたマウイ地方の曲です。ではマウイ・チャイムス!!」

さすが、ここの拍手はお客の自発的拍手、MC(司会者)が「次にリクェストありませんか」というと「ジョニイギター!!」「マンボやってぇ」「スイートラニー」とおにぎやかなこと。隣りの机の二十才前あたりの女の子四人連れのところにボーイが来る。

「ミルクお使いになりまして?」

「ウン、だけど足りなかったワ」

「ハッ、沢山ございますからすぐもって参ります。お隣りの方はお連れさまですか?」

「アーラやだワ、オトコノコなんか連れちゃいないワヨ」

オトコノコなる当方は、全く聞こえなかったような顔をして、ステージを眺めざるをえない。

「スローなものが続きましたから、次になにかヤキヤキするような早くてにぎやかなものをどうぞ」

「タファファイ」とすかさず声がかかり、「OK、ハワィアンウオーチャントですネ。レッツゴー、タファファィ!!」

かくのごとく、やきやきするのがジャズ喫茶店の本領なんだろうが、三軒まわったあげく、コーヒーの一番うまかったのが新宿、一番量の多かったのが銀座、一番濃かったのが三十間掘のブルーシャトーということだけしか断言できなかった。

ここで岡部の「ジャズ喫茶みてある記」は終わる。結びの一節を読むかぎりでは、当世人気のジャズ喫茶は、岡部の心をとらえることはなかったようだ。

「ヤキヤキするような早くてにぎやかなもの」とはHot Jazzあたりから生まれたフレーズだろうか。いずれにしても、モダン・ジャズしかやろうとしなかった秋吉敏子や渡辺貞夫が不遇をかこつたことも、この岡部のレポートを読むとそれなりに想像がつく。

岡部が取り上げた「ジャズ喫茶」が、この当時世間一般に認識されていた「ジャズ喫茶」の姿なのだろう。しかしそのいっぽうで、現代のジャズ喫茶へとつながるスタイルを備えた店もこの頃から生まれていた。

日本のモダン・ジャズ黎明期のジャズ喫茶

秋吉敏子や渡辺貞夫らは、ジャズ喫茶という名のライブスポットで仕事をするいっぽう、最新のモダン・ジャズのレコードを揃えたジャズ喫茶で本場アメリカのトレンドを勉強していた。そうしたジャズ喫茶のなかでももっとも早い時期に知られていたのは有楽町の「コンボ」だ。

この店については渡辺貞夫や岩浪洋三などがふれてきているが、いちばん詳しく語られているのは相倉久人の『至高の日本ジャズ全史』(集英社)だ。

相倉が「コンボ」を知ったのは1952年4月に東京で行なわれたジーン・クルーパ・トリオ公演の帰りだった。

コンサートが終わって会場を出ようとしたとき、誰かが「この近くにジャズのレコードを聴かせる店があるので寄ってみないか」といい出した。

ちょうど二、三人前を歩いていた牧さん(筆者注:ジャズ評論家の牧芳雄)も誘ってそこへ向かった。

場所はJR有楽町駅前の、中央口と京橋口のちょうど中間点。そのロケーションの利点を、のちにぼくは気障っぽく「ひといきに突っこめば、傘のいらない射程距離内に、その店はあった」と紹介したことがある。

ぼくよりひとつ年上の、小柄な男がマスターの川桐徹。みんなその背格好から「ショーティ」と呼んでいたが、やがてそれがナマって「ショーリさん」になった。初めは店に最新式のSPオートチェンジャー(一〇枚ほどのSP盤をセンタースピンドルに積んでおくと、一枚終わるごと自動的に次の盤がセットされ連続して演奏ができる)を仕込んでいたが、この初回の訪問時にはベニー・グッドマン楽団のカーネギーホールでの演奏(《ライヴ・アット・カーネギーホール一九三八(完全版)》としてCD化)がかかっていたのを思い出す。

やがて「コンボ」にも十インチLPが入り、米アドミラル社製の再生装置に変わった頃から「モダンジャズの店」の看板を掲げるようになった。常連として足繁く通いだすのは、その頃からである。

相倉が「コンボ」の常連になった頃には、たくさんのジャズメンが来ていた。

シャープ&フラッツの原信夫やジョージ川口、松本英彦、宮澤昭といったスターをはじめ、秋吉敏子、守安祥太郎、八城一夫、鈴木章治、与田輝夫、フランキー堺、高柳昌行、西条考之介、八木正生、三保敬太郎、澤田駿吾、ナベプロの社長になる渡辺晋や野々山定夫(ハナ肇)とのちに結成されるクレージーキャッツのメンバーたち、そして宇都宮からやってきた渡辺貞夫。白木秀夫がのちに結婚する水谷良重(現、八重子)と一緒に遊びにきたこともあったという。

ライターでは久保田二郎、福田一郎、そしていソノてルヲやまだ学生だった大橋巨泉や湯川れい子も来ていた。写真家阿部克自もまだ学生だった。常連というほどではないが、植草甚一や油井正一も来ていた。秋吉敏子に連れられてハンプトン・ホースも来た。変わり種では阪急ブレーブス選手で、のちにチーム専属通訳となったバルボンも顔を見せていた。

ミュージシャンが多かったのは、銀座や築地を仕事場としていた彼らが、クラブ通いの行き帰りに立ち寄ったからだ。1950年代前半、日本では銀座、有楽町がもっともジャズのにぎやかな町だった。

相倉によると、銀座、有楽町には鉄骨作りのビルが集中していて、東京の大半が空襲で焼け野原になったあとも、このエリアだけはわずかな補修で使用可能な建物が多く、進駐軍が接収後、GHQ本部を配置するのに都合がよかった。このため、いちはやく高級エンターテインメントの花も咲いたわけだ。

有楽町の「コンボ」は約6坪ちょっとのスペースだったという。外光が入りやすい造りだったため店内は明るく、「ジャズ喫茶特有の暗澹たる雰囲気とはほど遠かった」(相倉久人)。客の出入りがひんぱんで、「いつも和気あいあいとした空気があふれていて」、仕事場に通うジャズメンの休憩場所として愛されていたようだ。

また大橋巨泉によると、はじめは銀座の「スイング」に行っていたが、「名曲喫茶のように」静かに行儀よくしていなければならない店内になじめず、「コンボ」を知ってからはその自由闊達な雰囲気が気にいってすっかり常連になってしまったという。そして、スイングやディキシーのレコードばかりだった「スイング」に比べて「コンボ」はモダン・ジャズ中心だったことにも魅かれたようだ(『ゲバゲバ70年! 大橋巨泉自伝』講談社より)。

大橋巨泉が挙げているように、「コンボ」にジャズメンや評論家たちが集まってきたいちばんの理由は、当時はまだ珍しかったモダン・ジャズのレコードが豊富にあったからだ。

横浜「ちぐさ」も秋吉敏子や渡辺貞夫がレコードを目当てに東京から通っていたことで知られているが、1950年代前半は、ジャズ業界人にとってジャズ喫茶は最も重要な情報源だった。

秋吉や渡辺と親交の深かった天才ピアニスト守安祥太郎などは、バド・パウエルからウディ・ハーマンやディジー・ガレスピーのビッグバンドまで、SPレコードの再生をもとに完璧に採譜することできたという。

1954年7月、この守安祥太郎を中心に横浜・伊勢佐木町にあるクラブ「モカンボ」で行なわれた真夜中のジャムセッション、いわゆる「モカンボセッション」は、日本のモダン・ジャズ黎明期を語るうえで欠かせない歴史的出来事だが、参加したミュージシャンの多くは「コンボ」の常連であった。

相倉によると「コンボ」で出会ったミュージシャン同士の間でジャムセッションの話が持ち上がることが多かったという。このような交流の場として、当時のジャズ喫茶は大きな役割を果たしていたのだ。

50年代後半のある日、相倉が「コンボ」を訪ねてみると、店の扉には鍵がかかったままで、それっきりその扉が開くことはなかったという。客の誰にも知らせないまま、とつぜん閉店になったのだ。

店主は夜逃げしたと語る人もいるが、真相はわからない。こうして有楽町の「コンボ」は伝説の店となった。

『スイングジャーナル』1953年8月号に興味深いコラムがある。

パーカーのレコードを沢山集めている喫茶店に新宿のエルザがあります。ここは本誌ブラインドホルド・テストを録音する所として、又ジャズ・フアンのたまり場として好評を得ています。又、毎月定期的にレコード・コンサートを開いています。

これは「鳥と月の関係について」という題の1/3ページ程度の囲み記事の一節である。署名はない。

チャーリー・パーカーについて書いたものだが、フランキー堺を取り上げた「今月のスタア」という見開き2ページの記事の右隅に、なんの関係もなく唐突に入っている。おそらくスペースが空いてしまったために、急遽埋め草として編集部員が書いたものではないかと推測する。そして日頃懇意にしている新宿の「エルザ」という喫茶店の宣伝をしてあげようというサービス心もあったのではないか。

swingjournal1953年8月号
「今月のスタア フランキー堺」の右隅に入れられた囲み記事「鳥と月の関係について」スイングジャーナル1953年8月号

この「エルザ」という店はジャズ喫茶らしいが、その存在は今ではほとんど語られることがない。

「本誌ブラインドホルド・テスト」云々とあるが、「ブラインドフォールド・テスト」とは、1940年代後半にアメリカのジャズ評論家レナード・フェザーが考案したゲームで、ジャズメンに事前に演奏者の名前を知らせずにブラインドフォールド(目隠し)で音源を聴かせ、その曲に対して星印による5段階評価をさせるというもの。

当初は『メトロノーム』誌上で行なわれたが、1956 年からは『ダウンビート』誌に企画が移り、カウント・ベイシーをはじめ、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク、チャールス・ミンガスなどが参加して同誌の名物企画として現在に至るまで長年人気を保ち続けている。

『スイングジャーナル』誌でも1953年にこの企画が連載され、原信夫や海老原啓一郎など、日本人ジャズメンのスターたちが毎号登場している。おそらく同誌はこの喫茶店「エルザ」にテープレコーダーを持ちこんで店のレコードを録音し、それをミュージシャンに聴かせてテストしていたのだろう。

先に挙げた有楽町の「コンボ」以外にも、1953年ごろには、従来のスィング・ジャズだけではなく、モダン・ジャズのレコードを買い入れることによって集客をはかるジャズ喫茶が存在していたことがこの囲み記事からわかる。

この囲み記事と同じ号の巻頭に、たいへん珍しい広告が掲載されている。東京・西新橋あたりにあったと思われる「ONYX(オニックス)」というジャズ喫茶の広告だ。

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ジャズ喫茶「オニックス」の広告。スイングジャーナル1953年8月号

この広告に驚かされるのは「珈琲とModern Jazzの店」と明記されていることだ。

筆者の知るかぎりでは、これは「モダン・ジャズ」という言葉が初めてジャズ喫茶の広告に登場したものだ。

興味深いのは、この広告が表紙をめくって2ページ目の上段に掲載されていることだ。この前号までの長い期間、『スイングジャーナル』はこのスペースを「目次」の定位置としていた。

本来、表紙裏のこのスペースは、雑誌の中ではもっとも広告掲載料金の高いスペースであり、また、雑誌の要といってもよい目次に替えて喫茶店の広告を載せるというのは、出版社側にしてみれば、ずいぶん思い切った判断である。

かなりの金額が動かないかぎり、このスペースを広告のために売ることはない。さらにこの「オニックス」の広告は、この号から1953年12月号まで4号連続して同じ場所に掲載されていて、相当の予算が注ぎこまれたことが推測される。

面白いのは、この号の次の9月号からは、同じ店でありながら広告デザインがまったく違っていることである。

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ジャズ喫茶「オニックス」の広告。スイングジャーナル1953年10月号

8月号のデザインと比べると、まるで別の店のようだ。なにより「珈琲と Modern Jazz」というフレーズが消えて「COFFEE&JAZZ」に変更されている。このデザインで12月号まで連続掲載されたことを考えると、広告主は明らかにこちらのデザインのほうが気に入ったのだろう。

このジャズ喫茶「オニックス」のことを語る人はこれまでほとんどなく、幻の店となっていたのだが、この店のオーナーから直接、話を聞きだして取材した記事があった。『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社・1981年)に収録されている「幻のジャズ喫茶オニックス」だ。矢部久美子という人がこの店の物語を6ページにわたってまとめている。

ジャズ喫茶オニックス
幻のジャズ喫茶「オニックス」文・矢部久美子 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より
ジャズ喫茶オニックス
『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社・1981年)

この記事を元に幻のジャズ喫茶「オニックス」の姿をここに書きとめておきたい。

「オニックス」のオーナーは、柴田久成(しばたひさなり)さんという人だった。柴田さんは有楽町「コンボ」の常連だった。他の客たちよりもやや年上で、高価な10インチ盤を70枚ほど所有していて、プロのバンドマンたちから「レコードを聴かせてくださいよ」とよく頼まれていたという。

柴田さんは1938年に慶應義塾大学経済学部を卒業して三井倉庫に入社、終戦直前に三井物産に移籍し、戦後は三井農林に勤務した。岩手県釜石市に総務課長と赴任した際に、ここで占領軍向けのWVTR(のちのFEN)を聴き、ジャズに親しんだようだ。1948年頃に東京に戻り、有楽町の三信ビルにあったメイズという貿易商社に足しげく通って輸入レコードを買っていたという。

そして1953年に会社を辞め、退職金30万円と妻の親戚が経営する茶道具専門店前田忠商店(現在は豊新堂と社名を変更)から借りた15万円を元手に、「田村町の谷口さんという人の1階(6畳)を借りることにした」という。

店の楡の木のテーブル4卓と16脚の椅子は、「コンボ」に来ていた芝のレンガ通りにあった家具屋に発注したものだった。店内はグレーとベージュ、ダークブルーにダークグレイといった色合いで、壁には鉄平石を使った3枚の大きなガラスがはめ込まれ、中川タマオの絵が3枚飾れていた。3枚の絵のタイトルはジャズの曲名から取られたもので、「The Sunnyside of the street」「How high the moon」「Jump of one o’clock(筆者注:One O’Clock Jumpのことかもしれない)」だった。

コーヒーカップやグラスは、2人の女性スタッフが選んだ。中川タマオから紹介された服飾美術学校を出たばかりの20歳の女性がフロアを担当し、「コンボ」で働いていたことのある女性がカウンターを担当した。店主と2人の女性という体制は、「コンボ」と同じだった。

そして、のちにジャズ写真の第一人者として活躍するカメラマンの阿部克自が、この「オニックス」のアドバイザー的な存在として、同店のマッチのデザインからオーディオまで助言していたという。おそらく先に挙げた『スイングジャーナル』の「Modern Jazzの店」という広告コピーも阿部の手によるものだろう。阿部と柴田さんは有楽町の「コンボ」で知り合った仲だった。矢部が柴田オーナーを取材した際には、阿部克自も同席している。

「アベチャン(阿部克自さん)がずいぶん助けてくれたよ。店内のデザインもアンプやなんかも。マッチもそうですよ、僕の目の前でスラスラって書いてくれて、これでどうって。あっいいじゃないって。『オニックス』っていう名まえもアベチャンが、ニューヨークの『オニックス・クラブ』からとったらどうだろうっていうことでね、つけたんですよ」  柴田「オニックス」元オーナー談/『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用。

阿部は「オニックス」がオープンした1953年に早稲田大学理工学部電気通信科を卒業したばかりだったが、「オニックス」の開店前からオーディオシステムの準備をしていたという。

「半年くらいかかったかなあ。アンプはもちろん手作りです。6L6という球(真空管)をプッシュブルで使ったんです。当時イギリスから輸入されたばかりのウイリアムソン回路でした。高音、中音、低音用に3台作って、マルチアンプ・システムです。スピーカーはグッドマン12だったかな。カートリッジはピカリングかフェアチャイルド、いずれにせよ、モノーラルでした。」 阿部克自談/別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2)(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用。

ジャズ喫茶オニックス
阿部克自がデザインしたジャズ喫茶「オニックス」のマッチ 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より
ジャズ喫茶オニックス
上段左から中川タマオ、阿部克自、〝ショーティー〟と呼ばれ親しまれた有楽町「コンボ」のマスター川桐徹 下段左からトミー、中川タマオの友人岡島茂夫 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より 残念ながら柴田オーナーはこの写真には写っていない

オープン当初、店にやってきたのは、近くの日本生命や横浜タイヤなどに勤めるサラリーマンだった。しかし、店でかけるジャズの傾向が最先端のモダンジャズに絞られていくに従って、ディキシーファンやサラリーマンの客が消えていったという。

ミュージシャンにね、これが聴きたいって言われれば、一生けんめい探してきたな。調子にのってどんどん集めちゃった。僕はパッションに走ったエモーショナルな演奏形態とはちがったね、知的に抑制されたクールっていうスタイルが好みなんです。レコードをあげると、ウディ・ハーマンの〝セカンドハード〟、マイルスの〝クールの誕生〟、スタン・ゲッツの〝コンプリート・ルースト・セッション〟、チャーリー・パーカーの〝スウェディッシュ・シュナップス〟、レニー・トリスターノの〝トリスターノ〟」 柴田久人/ 『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用」

『証言で綴る日本のジャズ2』(小川隆夫・駒草出版)によると、有楽町の「コンボ」がバド・パウエルなどのイースト・コースト・ジャズを中心にかけていたのに対して、新橋の「オニックス」はウエスト・コースト・ジャズのレコードが充実していたという。「コンボ」については同書で渡辺貞夫は「最新のジャズを聴ける唯一の場所」と語っているが、「オニックス」がかけていたレコードもかなりとんがっている。1953年には、「コンボ」と「オニックス」という、最先端のジャズを聴かせるジャズ喫茶が東京の有楽町と新橋にあったということは後生に語り継がれていくべきだろう。

「オニックス」は朝の10時から開けていたようだ。開店と同時にバンドマンが入ってきて、彼らは仕事にでかける夕方まで出たり入ったりして、店は彼らのペースになっていたという。夕方になってバンドマンたちが仕事に出かけるときは、柴田さんもついていくようになり、六本木の「ゴールデンゲイト」など、頻繁に行く店では柴田さんはマネージャーと思われてテーブルチャージをとられることはなかったという。柴田さんは深夜まで生演奏を聴き、明け方ごろに、家には帰らず「オニックス」に戻って店内で寝て、朝の10時に開店という毎日を続けた。

柴田さんの記憶によると「オニックス」に出入りしていたバンドマンは以下の通り。

ほとんど常連のクラス

高柳昌行、ジミー竹内、原田寛治、次山慧、滝本達郎、白木秀雄、池沢行生、杉浦良三、吉本栄、八木一夫、福原彰

週1回程度のクラス

渡辺貞夫、山屋清、五十嵐明要、宮沢昭、栗田八郎、五十嵐武要、西条孝之介、齋藤健二郎、丸山清子、世良譲

月1、2回程度のクラス

谷山忠男、松本英彦、チャーリー石黒、後藤芳子、鈴木寿夫、沢田駿吾、八木正生、萩原秀樹、金井秀人、中村八大、稲垣次郎

戦後の日本人ジャズメンのトップクラスが並ぶすごい顔ぶれだ。先に挙げたようにレコードリストがかなり充実していたことが、これだけのジャズメンを集めたのだろう。

1953年11月にノーマン・グランツがJATPを率いて来日するが、そのとき、ジーン・クルーパとやってきたもう一人のドラマー、J・C・ハードが「オニックス」でライブをやった。阿部克自のコネクションで店に来たらしい。そのときの柴田さんの回想。

「コーヒーも飲めないですよ。みんな立って満員。“Wellcome J.C.Heard”なんて書いてね。入場料なんてなかったよ」(『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用」

最新のレコードがかかり、来日ジャズメンのライブもある。「オニックス」には活気があった。

「オニックス・フィズっていうのがあったんですよ。焼酎と炭酸とお砂糖とレモン、あれが案外おいしいんですねえ。コーヒーが50円のころですよ。夜はいつも満員でした。でも徹底して回転が悪いのねえ。バンドマンの人たちが多かったですねえ。私は楽しかったですよ」(『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用」

これは明るい笑顔で人気者だったというウェイトレスの竹友(旧姓真鍋)孝子さんの述懐。「オニックス」にはこの孝子さんも含めて計4名の女性が勤めていたという。

ジャズ喫茶オニックス
「オニックス」の店内 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より

店はいつも客で賑わっていたのだが、柴田さんは経営が苦手だったようで、1年ほどして行き詰まってくる。珈琲のセールスマンに忠告されたこともあったという。

「1オンス16杯じゃだめだよ。柴田さん、40杯とらなきゃ」

柴田さんは店を続けることさえできればいいと思っていたので、経営スタイルを変えなかった。しかしやがて大家から「赤ちゃんが生まれたのでジャズを流すのはやめてくれ」と言われ、店を続けていくことができなくなる。オープンから1年半、1954年の秋だった。

閉店を惜しんだ常連たちから国電のガード下の倉庫へ移転するなどの案も出たが、これまで資金の援助をしてくれていた親戚の前田忠商店から「もうジャズはあきらめなさい」と諭され、万事休す。柴田さんは前田忠商店に就職する。柴田さんは前田忠商店から派遣されて百貨店などの茶道具売場で1979年まで働いていたという。

閉店のときには、「オニックス」のレコード・コレクションは150枚ぐらいになっていた。柴田さんはそれを店の関係者や常連たちに分け、手元に残ったのは3枚だけだった。

取材の締めくくりとして、1981年の3月、矢部は柴田さんと2人で、かつて「オニックス」のあったあたりを訪ねている。ジャズ喫茶「オニックス」は、「BARBER OTANI」という理髪店になっていた。

そしていま、グーグルマップで調べてみると、隣の「第5セイコービル」(東京都港区西新橋4-3-1)は残っているが、「BARBER OTANNI」はすでになく、その建物があったところは空き地になっている。

ジャズ喫茶オニックス
上の写真は1981年当時の「オニックス」があったところ。「BARBER OTANI」という理髪店になっていた。下の写真は「オニックス」オーナー柴田久成さん 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より

(次のページへ続く)

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