「俺はジャズ喫茶に入るときはゴキブリのように誰にも気づかれずにするりと忍びこむ」と書いた人がいた。
私がジャズ喫茶に行くようになってからのこの40年間、一度も店主に叱られたことも店で悶着を起こしたこともなかったのは、この「ゴキブリのようにいつのまにか忍びこみ、ゴキブリのようにいつのまにか姿を消す」という作法にあったのではないかと思う。まちがっても肩で風を切るような入店はしていない。
「マスターに怒られるかもしれない」「常連客にからまれそう」と不安になる若い人はやはり多いようだ。
窓も何もなく、外から内の様子をうかがうことのできない造りの多いジャズ喫茶について、「敷居が高い」とあれこれ想像をめぐらせてしまうのは無理もない。だが、実際のジャズ喫茶では、そんな心配とは裏腹に拍子抜けてしまうほど、何も起きない。
それでも不安で仕方がないという人のための転ばぬ先の杖として、「ジャズ喫茶の作法とマナー」をかんたんにまとめてみよう。
知らない店ではカウンターには座らない。
ジャズ喫茶にかぎらず、カウンターはたいがい常連客が占めるところだ。
カウンターから離れたボックス席に座れば、オーダーのとき以外は店主やスタッフや他の客と接触をすることはまずないので、ここでじっと座ってジャズを聴いていれば、面倒なことが起きることはまずない。
どんなにカウンターまわりがにぎやかで楽しそうでも、けっして疎外感などにとらわれぬように、「ワタシはここにジャズを聴きにきたんだ、友だちを探しにきたわけじゃないんだ」と念じよう。
ただし、たまに「よかったらどうぞ」と客が持ってきた菓子やフルーツやつまみのおすそ分けにあずかることがあるが、そんなときは遠慮なくいただこう。
カウンターしかなかったので座ってしまった。
ボックス席もあるのにわざわざカウンターに座ったときには、マスターもスタッフもその他の客も「もしかしてこの人は会話がしたいの?」と気をつかってしまうこともある。
だが、カウンターしかない店の場合は、必ずしもそうではないことを周囲も了解しているので、会話の意志のないときは、黙々とジャズに耳を傾けていればいい。文庫本などを取り出して読むのも大丈夫だ。
ただし、カウンターのどまんなかに座って新聞紙を広げたりスマホでゲームを始めるのは、傍若無人と周囲からニラまれるかもしれない。
だらしなく、アホみたいに聴け。
ジャズ喫茶で自分の身を守る最良の方法はジャズを真剣に聴くことだ。
かかっているレコードをちゃんと聴いているかどうかは必ずマスターに伝わるものなので、熱心に耳を傾けている客はけっして悪い扱いはうけない。
ただし、「マスター、オレのジャズ愛をホメてください」といった承認要求の強い態度はブロックされがちだし、反対に「マスターよりもジャズを知っているぜ」という下剋上の匂いが鼻につくようだと粛清の対象となることもある。また、「もっといいスピーカー・ケーブルあるよ」なんてオーディオ改善提案もタブーだ。
「ジャズは、ジャズ喫茶で、だらしなくアホみたいに聴くのがいちばんいい」と平岡正明が書いたように(男の隠れ家別冊『ジャズを巡る旅』あいであ・らいふ刊より)、ジャズ喫茶では才気というものは必要ない。
さらにいえば、マスターや他の客の存在など忘れてしまうぐらい無私となってジャズに没入できれば、ジャズ喫茶でイヤな思いをすることはまずない。
トイレで落書きをしない。
かつてのジャズ喫茶の客について、修行僧のように求道的でひたすら禁欲的であったとか、無言であることを強制された、まるで大人しい羊の群れであったかのように語られることもあるが、当時のジャズ喫茶の便所の壁一面にびっしりと書き込まれた無数の落書きを見れば、昔の客たちがそんなタマではなかったことはすぐにわかる。
いま、店のものに勝手に触ったり、オーディオブースに許可無く入り込んで覗いてみたり、貧乏ゆすりで音楽とは無関係のビートを刻んで周囲の空気を落ち着かなくさせている客(主に中高年男性)というのは、たいがいが、かつては他人の店のトイレに平気で「打倒帝国主義」とか「◯◯殲滅」とか「コルトレーン命」とか相合い傘の下に片思いの女の子と自分の名前を書いていた輩である。
そういう不遜さはおのずと態度や顔に出てくるもので、店主の逆鱗にふれるようなことを必ずどこかでやらかしてしまう。ジャズの世界では先輩ではあるが、こういう人たちのマネをしてはいけない。
リクエストはしない。
これが、いちばんハードルが高い。
「人はなぜジャズ喫茶でリクエストをしたがるのか」という本を書きたいぐらい、ジャズ喫茶の客はリクエストが好きだ。
だが、カラオケスナックで見ず知らずの他人の歌を強制的に聴かされて閉口した人は少なくないと思うが、ジャズ喫茶でリクエストをするという行為には、つねにこれに似たリスクがともなう。
ある地方都市の店を訪ねたときのことだ。
オープンしてまだ日が浅く、マスターも若くて、ジャズ喫茶とうたってはいないが、JBLのヴィンテージ・スピーカーとヴィンテージ・アンプを呼び物にしている喫茶店だった。
店のスピーカーの真正面の、ちょうど最適のリスニングポイントとなるあたりにゆったりと大きなチェアがあり、運良く空いていたので私はそこに座った。
そのときかかっていたのは、白人の男性ヴォーカルで50年代の録音だった。音量も小さめだったが、ボソボソと頼りなく歌うそのスタイルが、どうにも目の前の大きなスピーカーにはふさわしくないものだった。
たぶんこういう音源は、照明を暗く落としたジャズバーなどで聴くと、くつろいだ気分にさせてくれてアルコールも進むのかもしれない。だが、その店内は大きめの窓から明るい陽射しが差してくる健康的な雰囲気で、真夜中の秘めかなムードが漂うヴォーカルはどうも合わなかった。
それを20分近く聴かされてようやく終わるかと思ったときに、カウンターに座っていた50代後半ぐらいの男性客が「マスター、こんどはこれもかけてよ」と持ち込みのCDを渡した。
始まってみると、それもまた似たような白人男性ヴォーカルだった。チェット・ベイカーやマット・デニスやボブ・ドローならまだ楽しめるが、珍しいことだけが取り柄のような歌手のアルバムだ。
拷問のような時間が過ぎてようやく目の前のJBLが本領を発揮してくれるかと思ったら、こんどはマスターが「うちにある男性ヴォーカルといえば、こんなものしかないんですけど」といいながら、また、珍しいことだけが取り柄のような白人男性ヴォーカルをかけはじめた。
店に入ってからたぶん50分はたっていただろう。ジャズ喫茶でかかる盤にはそれほどこだわらない一緒にいた家人すらも「そろそろインストが聴きたいね」と私に耳打ちするぐらい、それは退屈な時間だった。
大きなJBLを前にして思いっきり脱力していた私の気配を察したのか、ようやく歌のないインストのジャズがかかった。それはコルトレーンの「バラード」だった。
私の大好きなアルバムだが、どうせインパルス盤をかけるなら、私ならギル・エヴァンスの「ホットへの突入」をかける。
マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスの演奏で知られる「イスラエル」の作曲者ジョン・キャリシがフィル・ウッズをフィーチャーしてまとめたラージ・アンサンブルと、アーチー・シェップ、ジミー・ライオンズ、サニー・マレイらを擁する セシル・テイラーのグループによるフリージャズではないがややアバンギャルドな演奏を交互に配したこの作品は、それまで単調で柔弱な白人男性ヴォーカルによって漂っていた店内のだらけきった空気をピシっと引き締めてくれるはずだし、多彩な楽器群を使った凝ったアレンジとダイナミックレンジの広いサウンドは、オーディオセットのポテンシャルを客にみせつけるにはうってつけだと思うからだ。
また、JBLについて語らせたらいまでも日本一のオーディオ評論家、故岩崎千明がシステムチェック用のリファレンスとして好んで使った、やはりインパルス盤のソニー・ロリンズの「アルフィー」でも流してくれたら、たぶん、私のそれまでの欲求不満はすべて解消されてチャラになっただろう。
おそらくこの若いマスターはジャズ喫茶でアルバイトをした経験がなかったのではないか。
店の経営を考えるなら、自分好みの音源をかけてもらうことしか念頭にない目の前のカウンターの客よりも、特別オーディオ席で待ち構える一見(いちげん)の客に向けて、オーディオを呼び物にしている店としての実力をアピールするべきだった。
すっかり懲りてしまったこの客はたぶんもう二度と来ないだろう…いや、その客はたまたま私だったので、私はそんなことはしない。今回は間が悪かったのだと自分を納得させて、次回の訪問に期待をつなぐのである。
これとは好対照な例をひとつ挙げる。
これもやはり、JBLのヴィンテージ・スピーカーを売り物にしたジャズ喫茶で起きたことだ。
リー・モーガンがいつものべらんめえ調で痛快にトランペットを吹き鳴らし、ああ、スッキリしたなあ、とこちらの気分も昂揚してきた矢先に、とつぜん白人女性ヴォーカリストが歌う「ラウンド・ミッドナイト」がかかった。
エラ・フィッツジェラルドとかサラ・ヴォーンなら大歓迎だが、それは、味なフェイクも粋なスキャットもない、原曲のメロディどおりに抑揚のない調子でお人形さんのように歌うだけのパフォーマンスだった。
深夜に自室にこもってその金髪女性歌手の美しい姿態が印刷されたジャケ写を眺めながら独りで聴けば、これもまたしみじみと愛情が湧いてくるものなのかもしれない。
しかし、何が悲しくて昼下がりの明るい午後の喫茶店(その店は採光がよくてぜんぜん暗くない)で、その女性歌手のタニマチでもない私がこんな真夜中のテーマソングに付き合わなければならないのか。
これをリコメンドしてくれたのは中年の男性客だ。近くのレコード屋で買ってきたCDをマスターに見せて、これと同じものをレコードでかけてくれとリクエストするのを私は見逃さなかった。
スリルにまったく欠ける「ラウンド・ミッドナイト」が終わったあと、まだまだ続くのかと絶望的な気持ちで座っていたのだが、とつぜん鳴りはじめたのはズート・シムズのスインギーなテナーサックスだった。
マスターはその場の空気にふさわしくないと判断したのだろう、客のリクエストには1曲こたえただけで、さっとそれを切り上げてしまった。それは昔ながらのジャズ喫茶のリクエスト対処法だった。
往年のジャズ喫茶のマスターは、客のリクエストに対しては専制的だった。
これはその場にふさしわくない盤だと判断すると、すぐにはその盤はかけずに、何枚か他の盤を間に挟んで、その盤にうまく繋がるような流れを作った。2時間でも3時間でも客を待たせることもザラだった。
もっと極端な場合は、店でかけるべきではないと判断した盤は、たとえレコードリストに載ってはいても、「その盤は家に持って帰っていて店にはありません」とか「盤のコンディションが悪くてかけられません」などと理由をつけて断わるか、ほんとうに店の棚から消してしまっていることもあった。
ジャズ喫茶の選盤とは、ことほど左様にデリケートな作業なのである。
あなたは、それでもリクエストをして己の我を通したいですか? とは私は問わない。
なぜなら客にはまったく責任はないからだ。
リクエストを受け付ける以上は、客がどんなリクエストをしようが、それを巧くさばいて見せるのがジャズ喫茶マスターの仕事であり、ジャズ喫茶経営とはその技量が問われるものだと思う。
そしてリクエストへの対処が下手な店は、必ず客が離れていってしまう。
マスターの選盤というのは、いわばそのマスターのジャズに対する批評行為のようなものだ。店によって異なるその個性と主張を楽しむことのほうを私は好む。だから私はリクエストをあまりしない。
だが、街角を歩いていて突然、誰かのレコードや曲が聴きたくなって、ジャズ喫茶に駆け込んでそれをリクエストするなんていうのも、ジャズ喫茶ならではの楽しみである。
そして多くの店はいまもリクエストは大歓迎だ。
だからリクエストをしてはいけないとはいわないが、ただ珈琲を飲んで座っているのとは違って、リクエストというのは、その場にいる人たちのそれぞれのジャズ観、趣味趣向に一歩踏み込むことはまちがいない。
けっして危うきに近づきたくない人は、リクエストを避けてその店と水の如き交わりを楽しまれたほうがよいと思う。
それはともかく、大名盤をリクエストするとマスターや他の客から怒られたりバカにされるという話がよくネットなどに書き込まれているが、やや脚色の付いたものだなと感じながらも、事実だとしたらおかしなことだと私は思う。
岩手県一関のジャズ喫茶「ベイシー」でのことだ。大きなJBLのスピーカーがあり、ジャズ喫茶のオーディオでは日本一と呼ばれる店だ。
40代ぐらいの男性客が、菅原正二マスターに近づいて、「初心者なんですけど、リクエストいいですか?」と話かけた。
ウェス・モンゴメリーの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」が聴きたいという。
タイトル曲は、ビートルズの有名曲をギターのウェスとオーケストラのアンサンブルでまとめたものだ。
いい盤であることに違いはないが、イージーリスニングのようにも聴こえるため、ジャズギターの第一人者ウェス・モンゴメリーが売らんかなのコマーシャリズムに堕したアルバムという意見も少なくはない。その道の言葉でいえば「シャリコマ」と切って捨てる人もいる。
私も「天下のベイシーでそれをリクエストするか?」と内心ヒヤッとしながら菅原マスターの顔色をうかがったのだが、マスターはポーカーフェイスで「うちではめったにかけないから探してみなきゃ」と応えて、カウンター奥のレコード棚に向かった。
けっこう時間をかけて棚のあちこちを探し、ようやく出てきたウェス・モンゴメリーの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」をマスターがかけた。
素晴らしかった。
「ベイシー」は客のいない早い時間帯にはチャイコフスキーなどのクラシックをよくかけているという話があるが、これは都市伝説ではなく本当だ。
ふだん、そういうものをかけていることもあってか、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」に入っているドン・セベスキーが編曲したオーケストラの生ストリングスのサウンドが、実に艶があって美しい。
やっぱりこれは名作だと感心した。
片面が終わったあと、その男性客はまたカウンターに向かって歩き出し、「次のリクエストいいですか?」とマスターにおねだりをした。
どうも最近は何枚もリクエストをする客が珍しくないが、昔は、リクエストはワンオーダーにつきレコードの片面1回というルールの店が大半だった。
伝票の隅にリクエストカードがついていて、そこにアルバム名とミュージシャン名とレコードのA面かB面かのどちらかを書きこみ、ミシン線を切り取ってそれを店の人に渡すか、または伝票と一緒についてくる小さなリクエストカードを使うという店も多かった。2回目のリクエストをしたいときは、追加オーダーをしてもう1枚、伝票かリクエストカードをもらうというシステムだ。
この男性は、追加オーダーもせずに2度目のリクエストをしたようだった。しかも、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」だと。
もしジャズ喫茶の歴代リクエスト・ランキングをつくってみたら、堂々の第1位に入るのではないかというほど、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」はジャズ喫茶でよくかかる。
私もジャズ喫茶で数えきれないほどこれを聴いたし聴かされた。正直、そんな耳タコ盤はもう十分、かんべんしてくれよと私は「初心者の客」を心の中で呪った。
リクエストを受けた菅原マスターは、無言でポーカーフェイスを崩さぬまま、ふたたび奥のレコード棚に向かった。
こんどもまた、レコードが出てくるまでにけっこう時間がかかった。やはりこれも、いまはめったにかけない盤だったのだろう。
「レフト・アローン」のテーマが鳴り始めた。
もう何十年も何十回、何百回も聴いたアルバムだったはずだが、それはこれまで聴いたことのなかった「レフト・アローン」だった。
ジャッキー・マクリーンのアルトサックスが「鳴く」というよりも「哭く」という言葉がふさわしいように「ベイシー」の空間を震わせた。
肺腑をえぐられるような、慟哭だった。
名盤というのは何度聴いても新しい発見があるものだということを改めて思い知った。
もしあなたがリクエストをしたときに「そんな大名盤を? 初心者め」とあざ笑う人がいたとしたら、それはリクエストをした人がおかしいわけではない。
きっとほかの何かが間違っているのだ。
(了)
photo & text by 楠瀬克昌
【トップの写真:一関のジャズ喫茶「ベイシー」】
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