そして、有終の美
一時は店の下階でオーディオショップを展開するなど、高知のオーディオ・マニアの拠点としても「アルテック」の存在は大きかった。見よう見まねでオーディオを始めたという青山さんだが、近年は青山さん自作の真空管アンプを店で使っていた。
「いろいろ作ってどういうことかってのがわかったのよ。結局、自分で考案した独自の回路とか、そういうのは駄目なのよ。昔のエディソン研究所とかグラハム・ベルとかの作ったやつというのは、こういう用途のために作ってあるわけよ。それをちゃんとやればふつうに音が出るし、安定的に使えます。ちょっと変わったことをやろうとすると駄目。」
「シンプルにいろはの<い>の回路でやれば、(録音されてレコード盤に)入ったもの(音)はぜんぶちゃんと出る。音いうのは、機械にはなんにもないの。(レコード)盤に全部ある。盤がすべて。高い機械を買えばええ音がするだろうと買い替えてますよね、いっぱい。それは違うと言ってるんだけどね。」
「アンプを作る人にもいますもんね、好みの音が出んって作っては壊し、作っては壊し。やっぱり盤がだめやったら駄目と。それで僕は買いはじめたのよ。いちばん最初に作ったオリジナル(盤)を。それから、音楽というのはハーモニーとかが聴こえないといけないから、やたら低音が出ますとか高音がチンチンよく鳴りますとか、そういうレベルの人には無理、何を言っても。」
「このアルテックA7は(エンクロージャーは)2個目です。中身(ユニット)は3個目。最初のは開店して5年目ぐらいに売ってくれと言われて売りました。状態のいいものがほしいとオーディオ・マニアが来るんですね。」
「自分が作ったアンプを持ってきて店で鳴らしてくれという人もいますよ。1ヵ月ぐらい店で鳴らしてあげて、それから持って帰る。自分の家では大きめの音量でエージングなんかできないですからね。ジャズ喫茶だと1日10数時間鳴らしっぱなしですから。クルマと一緒ですよね、毎日動かしてないと調子が悪くなる。」
「このスピーカー(アルテックA7)はね、名古屋に行くんですよ。(閉店してすぐの)11月に取りにきます。業者ではなく個人みたいですね。」
ジャズ批評社の『ジャズ日本列島 1995年版』で青山さんは次のように書いている。
「素晴らしいシステムが出来て、たいへん気に入ってますが、この20年間にジャズのリクエストをする人が減って、最近では10人に1人位しか店の音を聞いてないような状態で淋しく思っています(システムはもう最高なのに!!)残念です。」
43年続いた「アルテック」の閉店の理由は、ビルの老朽化によるものだ。
「いまさら耐震かけてぜんぶ塗り直してというよりも、もう壊したほうがええやろうと。閉店が決まってからはほんとに忙しいですね。いろんな人が来てくれる。たいへんな目にあっとります(笑)」
「アルテック」の閉店は10月31日。10月24、25、26日の3日間は最後のライブをやった。
1日目は若手ヴォーカリストの伊藤大輔とベテランのユニットROOT BAGU(竹下清志p、北川弘幸b、猿渡泰幸ds)。ゲストはBREEZ 。2日目は、2007年、来日できなくなったアニー・ロスの代役で日本人として初めてコンコード・ジャズ・フェスティバルに出演して以来、青山さんと一緒に仕事をしてきたコーラスグループのBREEZ(中村マナブ、磯貝たかあき、松室つかさ、小菅けいこ)と竹下清志。ゲストは伊藤大輔&ROOT BAGU。3日目はオールアート・プロモーションがカナダから呼んだピアノ弾き語りのキャロル・ウェルスマンとギターのピエール・コテ。ゲストはBREEZ with 竹下清志。
初日だけはゲストがいないので青山さんがアルテックの43年について語るトークセッションを行なった。連日ソールドアウト、立ち見が出るほどの大盛況だった。
店の名前は息子の青山幸司さんが受け継ぐ。幸司さんはPA機材のレンタルから設置、ミキシングなど、音響全般のコーディネートを手がける会社「アルテック」の代表取締役を務めている。
幸司さんは二人兄弟の次男で、中学生の頃から父清水さんが仕切るジャズ・ライブの現場に付いていくようになり、成人してからは本格的に父の音響関係の仕事を手伝い、機材設置やミキンシグなどの現場のノウハウを学んだ。また、叔父の経営するレストランで2年間調理の修行をした後、ジャズ喫茶「アルテック」の厨房を任されて父の店を助けてきた。
清水さんは,息子幸司さんが子供の頃から軟式野球とソフトボールチーム「アルテック」を作って活動しているが、閉店後もそれは続けていくという。また、高知県シニアソフトボール連盟の理事長を務めながら少年チームの指導もしている。
「野球で大事なのは打つときは遠くへ飛ばせということやね。バーンと打て。ウチのチームは打ちまくって勝つか、ボコボコに打たれて負けるか(笑)。バントで勝つなんて試合はないからね。もうみんな飛ばせよと。」
「ジャズもね、チャーリー・パーカーってものすごい音が大きかったでしょう。そしてものすごく速い。アマチュアの人にはね、言うんですよ、『上手に吹こうと思うな』と。でかい音をだせ、それからはじめろと。」
青山さんがこれまでに出会ったジャズメンの中でも大好きなのはレイ・ブラウンだ。彼の墓参りにも行った。
レイと仕事をしているときに「きみはピート・ローズだ」と言われた。
青山さんが「酒とバラの日々」をリクエストしたら、曲名の「バラ(Rose)」と当時人気絶頂だった大リーグ選手ピート・ローズと青山さんの野球好きをひっかけたらしい。また、現役時代はつねに全力のハッスルプレイでファンを魅了したピート・ローズのキャラクターと青山さんを重ね合わせたのかもしれない。
それ以後西海岸の顔見知りのジャズメンは青山さんのことを〝ピート・ローズ〟と呼んだという。レイ・ブラウンはコンコード・ジャズ・フェスティバルで日本には4回来た。もちろん「アルテック」でもベースを弾いた。
取材後、青山さんがチームの移動にも使っているワゴン車 で高知駅まで送っていただいた。
店から駅までは1km程度の距離なので遠慮したのだが、どうしてもということでお言葉に甘えた。MJQがコンコード・ジャズ・フェスティバルで高知に来たとき、宿泊していた新阪急ホテル(現ザ・クラウンパレス新阪急高知)から会場の高新文化ホールまではわずか100mほどだったが、それでもメンバーをタクシーで送迎したと青山さんが話してくれたことを思い出した。 (了)[2016年6月取材]
photo&text by 楠瀬克昌
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