うかつにもこれまできちんと読んだことがなかったのだが、ウィキペディアの「ジャズ喫茶」が雑すぎてひどい(笑)
大小さまざまな間違いに気づいてしまったが、まずいちばんに驚いたのは、
「クーラーなどの冷房機が完備していない(暖房機については、入れてある)」としているところ。
いちおう「近年は必ずしも当てはまらなくなってきているが」とことわりは入れてあるものの、「ジャズ喫茶に冷房機が完備していない」はずがない。
マイク・モレスキーの『ジャズ喫茶論』(筑摩書房)のなかに、『スイングジャーナル』に掲載されたジャズ喫茶の広告をもとにそれを証明する仮説が書かれているのでそのまま抜粋しておこう。
1959 年9月号の広告の三分の一では「完全冷房」や「冷房完備」などを太文字で誇らしげに唱えているのに、たった二年後の1961年の9月号となると、三十軒中一軒も冷房に言及していないということは、その間に冷房がすっかり定着し当然になったのだろう(『ジャズ喫茶論 戦後の日本文化を歩く』p171から抜粋)
たしかに1950年代は「冷房機が完備していないジャズ喫茶」が多かっただろう。
しかし、これはふつうの喫茶店や飲食店、そして会社や一般家庭も同じだったはずだ。ましてジャズ喫茶の場合、暑いからと窓や扉を開けておくと、音に対する近隣からの苦情で営業に支障が出ることは明らかだ。
むしろ防音対策をしっかりやらなければならないジャズ喫茶のほうが、他の喫茶店よりも冷房機完備は早かったかもしれないという仮説さえ十分に立てられる。
ジャズ喫茶も客商売だ。冷房機のない店に誰が好んで来るものか。
ふつうに考えてみればありえないはずのことなのだが、なぜかジャズ喫茶にかんしては、とかく、このような「都市伝説」や「盛られた話」が多い。
清潔感をあまり意識せず、わびさびを感じさせたり、店内照明を暗めににしている(ウィキペディア『ジャズ喫茶』より)
ジャズ喫茶の特徴として3K(汚い、暗い、怖い)といった類のことがよく言われるが、「暗い」はともかく(じっさい、昔のジャズ喫茶は窓が少なかったり小さい店が多く、照明も暗い店が多かった)、「汚い」という、集客に悪影響を及ぼす要素を飲食店の経営者が自ら好んで取り入れるはずのないことは、ふつうに考えてみればわかる。
河野典生の小説を映画化した『狂熱の季節』(公開1960年、監督・蔵原惟繕、主演・川地民夫、音楽・黛敏郎)に主人公の10代の若者たちのたまり場として渋谷のジャズ喫茶「デュエット」が出てくるが、この映像に残されている当時の先端をゆく明るくモダンな内装、雰囲気を見れば、昭和の全盛期のジャズ喫茶に3Kという表現が必ずしもふさわしくはないことは誰の目にも明らかだ。
全盛期のジャズ喫茶の客は10代から20代前半の若者が大半であり、こうした層が「おしゃれ」「かっこいい」といった要素を求めるのはいつの時代も変わらない。
山形「珈琲園」の安達啓介店主は、昭和30年代に自分が最初に出した喫茶店について「山形では初めて“カウンターのある店”ということで評判になった」と話してくれたが、この安達氏のように昭和にジャズ喫茶を始めた店主は、ジャズマニアというよりも飲食店経営のプロが多く、「モダン」「ハイカラ」といった先端の風俗を取り入れることに熱心だった。
「ノスタルジックな昭和な空間」というイメージはのちの時代に予算面などで改装、改築ができずにそのまま維持しているケースから生まれたものが大半だろう。ジャズ喫茶は最初から「古さ」「わびさび」(?)をウリにしていたわけではない。
経営悪化により人手をカットしたり、一緒に働いていた配偶者や家族を失い、高齢と重なって男やもめにナントカ的になって店内が荒れた感じになっている店があることもさびしいが事実だ。
ただし、なにより強調しておきたいのは、長年営業を続けて生き残っている店に共通するのは、いっけん古びては見えるが、きちんと清掃がなされていて、けっして不潔ではないということだ。いわば老舗旅館のようなものだ。
ジャズ喫茶も客商売だ。清潔感のない店に誰が好んで来るものか。
店内での会話全面禁止、もしくは会話許可席を設けている。(ウィキペディア『ジャズ喫茶』より)
いまだに「ジャズ喫茶は会話禁止」と思っている人は少なくないが、現在、全国にあるジャズ喫茶、ジャズバーでこのルールを設けているのは、東京・四谷の「いーぐる」(会話禁止は開店11時30分 から18時まで。それ以降は会話可)や横浜・野毛の「ちぐさ」(開店12時から午後6時までは会話禁止。それ以降は会話可)、兵庫・神戸の「jamjam」(会話禁止のリスニングスペースと会話可の談話スペースに分けられている)、長野・松本の老舗『エオンタ』(スピーカー前の5〜6席ぐらいのスペースは会話禁止)の4軒ぐらいである。
いずれにしても、いまはジャズ喫茶の99 %は「会話禁止」ではない。
スイングジャーナル1961 年11月号に興味深い記事がある。
「マスター大いに語る ジャズ喫茶は花ざかり」というタイトルで、東京・京橋「ユタカ」の永井豊氏、東京・新宿「木馬」の小沢祐吉氏、神奈川・横浜「ちぐさ」の吉田衛氏3人のジャズ喫茶マスターの鼎談を5ページにわたってまとめたものだ。
モダン・ジャズ・ブームの興隆とともにジャズ喫茶が人気を集め始めた時代ならではの企画で、ジャズ喫茶マスターがこれほど大きく取り上げられたのは、この記事が最初ではないだろうか。
このなかで「ジャズ喫茶の会話禁止」について以下のようなやりとりが行なわれている。「久保田」とあるのはこの鼎談の司会、ジャズ評論家でスイングジャーナル編集長も務めた久保田二郎氏。
久保田 木馬というのはとにかくお客さんが一寸はなしてもすぐシカられちゃうんでしょう(笑)。僕は、そういう店が出来たよって、木馬という名前よりそっちの方を先にききましたよ。(笑)
小沢 どうも(笑)
吉田 いやね、私もその木馬さんの評判はきいているんですが、とにかくすごいですね(笑)
小沢 いやどうも(笑)
吉田 いや貴方はえらいですよ、とにかく新宿という土地でね。決して静かな土地ではないのだから新宿は、そこで思い切ってそういった経営をするというのは僕にいわしたら、これは立派な一つの考え方なんだし、立派なものですね。
小沢 どうも恐れ入ります(笑)
本誌 なんか河野隆次さんもしかられたとか(笑)
久保田 僕も二度位行ったけどね。
永井 やはりしかられましたか(笑)
久保田 いやあたくしは前々からハナシにきいてたから静かにしていたので別に(笑)
河野隆次氏はスイングやニューオリンズジャズが専門で、昭和20年代からNHKラジオのパーソナリティーとしてレギュラー番組を持ち、明るくソフト語り口で人気を集め、ジャズ評論家としてはもっとも早く成功したスターである。
この3人のマスターのなかでは最古参、昭和8年開業の横浜「ちぐさ」の吉田衛店主といえば「おっかないマスター」というイメージが強いが、その吉田店主でさえ、新宿「木馬」の会話禁止の営業方針に感心しているのだから、当時は「ジャズ喫茶は会話禁止」がまったく一般的なルールではなかったことが推測できる。
新宿「DIG」がオープンしたのは、ちょうどこの記事が掲載された1961年の11月だった。「DIG」の中平穂積氏によると、喫茶店を始めたいと最初に相談したのは、この「木馬」の小沢店主だった。全国的に有名となった「DIGの会話厳禁ルール」のヒントになったのは、「木馬」の経営方針だったのかもしれない。
また、「DIG」も開店当初は「会話禁止」の店ではなかった。(詳しい事情はこちらに。「ジャズ喫茶とは?」)
(次ページに続く)
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