ジャズ喫茶論の読み方、読まれ方

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見落とされがちなジャズ喫茶の功績

本書では昭和初期以来、日本のジャズ喫茶はアメリカの「本場」のライブを聴くことのできない日本のジャズファンの<欠如>を補うための、レコードという複製音源による、いわば擬似コンサート会場としての役割を果たしてきたとしている。

そして80年代以降のジャズ喫茶衰退の大きな要因として、「日本全国で(日本人ミュージシャンによるライヴも含め)高度なジャズの生演奏を身近に聴ける機会が増えたので<欠如>の状態が消えるにつれてジャズ喫茶の重要性が下がる。」としている。

だが、この分析には一理あるものの、70年代から80年代にかけて、特に地方のジャズ喫茶が「本場」のジャズメンの生演奏を身近に提供してきたという部分がすっぽり抜け落ちてしまっているようだ。

70年代に入ると、日本各地のジャズ喫茶店主たちがプロモーターと提携してツアーを組み、アメリカを中心にヨーロッパを含む数多くのミュージシャンを招聘したことを忘れてはならないだろう。

70-80年代にはオーソドソックスなバップからフリージャズまで、幅広いスタイルの、今やレジェンドとなったたくさんのジャズメンが来日しているが、各地でその興行を仕切り、チケットを売りさばいたのはジャズ喫茶店主たちであることが多かった。

彼らは自分の店でライブを行うこともあれば、ホールを借りて主催することもあった。60年代までは海外ジャズメンのコンサートが行われるのは東京、大阪などの大都市に限られていたが、そこまで見にいくことのできない地元のジャズファンのために彼らは自らの力で招聘したのだ。

地方のジャズ喫茶店主たちに当時のことを尋ねると、皆が異口同音に「儲けは度外視、トントンになればよかった」と振り返る。

こうしたジャズ喫茶店主たちの働きによって日本各地のジャズファンが「本場」のジャズメンの生演奏を身近に体験することができ、これによって70-80年代にはジャズファンの裾野が全国に広がった。

80年代は日本ジャズ史上、もっともファンが多かった時代であり、各地で大規模なジャズフェスティバルが開催されたが、その種を蒔いたのは全国のジャズ喫茶店主だったと言ってもいいだろう。

彼らが70-80年代の日本のジャズ・マーケットを縁の下で支えたことは間違いない。

ジャズ喫茶というと、レコード鑑賞を無上の喜びとする複製音楽オタクの空間と思われるかもしれないし、事実そうした面はあるが、ライブ演奏の提供にもずっとこだわってきたことも忘れてはいけないだろう。

たとえばジャズ喫茶におけるオーディオの殿堂と呼んでもいい、一関の「ベイシー」にしても、ここでは毎年メジャーなミュージシャンのライブを行うことが恒例になっているが、「赤字だけど、やっぱりね、地元の人たちにライブも聴かせてあげんといかんでしょう」と菅原店主が私に語ってくれたことがある。

ジャズ喫茶には、暗い空間で無言でじっと腕を組んで座っているレコード・オタク、オーディオ・オタクでは終わらないアクティブな一面もあるのだ。

また海外だけでなく、国内のミュージシャンにも、ジャズ喫茶はずっと仕事の場を提供してきた。これは現在に至るまで変わらない。

直木賞作家の原尞が70年代にジャズピアニストとして活動していたときの、こんなエピソードがある。

彼は当時、ニュー・ジャズ・シンジケートというフリージャズ系のグループで活動していたが、アップライト・ピアノを軽トラックに積んで、メンバーたちと日本全国を旅したことがあるという。

たどりついた街でめぼしいジャズ喫茶をみつけると、そこに入ってコーヒーを飲み、頃合いを見計らって店主に店でライブをやらせてくれと交渉したという。そのライブでガソリン代とその日の食事代を稼ぐとまた次の街へという旅だったようだ。愛知県豊橋の「グロッタ」や大阪の「トップシンバル」が中でも印象に残っているという(『ミステリオーソ』早川書房・1995年より)。

この原の体験は特異なものではあるが、日本のジャズ・ミュージシャンとジャズ喫茶の関係の一端が垣間見えるエピソードだ。

今でも全国の多くのジャズ喫茶店主たちから聞く話だが、ジャズ・ミュージシャンから出演させて欲しいという交渉の電話が店に頻繁にかかってくるという。

また最近ではこんな話がある。

昨年11月にECMよりリーダー・アルバムをリリースした大阪出身のドラマー、福盛進也にまつわるものだ。

同レーベルから自分名義のアルバムを出した日本人は菊地雅章以来、福盛が2人目だが、マンフレッド・アイヒャーの手によって制作されたそのアルバムのタイトルは「For 2 Akis/フォー・トゥー・アキズ」という。

この「Akis」とは、大阪のジャズ喫茶「いんたーぷれい8」のマスターとスタッフの名前から取ったものだという。福森がドイツに渡る前、日本で何かと彼を支えてくれたのが「いんたーぷれい8」だった。

このエピソードは柳樂光隆による以下のインタビュー記事に詳しい。

《Jazz The New Chapter for Web》福盛進也 interview – about Shinya Fukumori Trio『For 2 Akis』 後編 

その部分をここに引用させていただく。

大阪にいんたーぷれい8ってお店があって。日本に一年半だけ帰っていた時にずっと通っていた店で、その頃は仕事もなかったんですけど、そこのマスターだけは僕のことをほめてくれてて。いつも「仕事ないやろ」って言って、ご飯出してくれたり笑 そこで僕のプロデュースのライブのシリーズをやらせてくれたりサポートしていてくれたんです。マスターの中村明利アキトシさんとスタッフのアキさんの二人の《アキ》ために僕が最初に書いたルバート的な曲が「For 2 Akis」で、その曲名をタイトルにしました。

「いんたーぷれい8」は1958年開業の老舗で、若い頃の山下洋輔が世話になったことで知られる店だ。

大阪万博が開かれた1970年、偶然立ち寄った山下トリオが休憩時間に飛び入りライブをやったところ、ドラムのペダルが壊れ、ピアノの弦が切れてしまった。

その日出演中だった関西の大御所がこれを見て激怒するが、中村陽子ママ(中村明利マスターの母)が山下の味方をしたために話がこじれ、ママは山下によると「関西の敵」とみられるようになってしまったという。

以来、それを恩義に感じた山下は、店名の由来ともなっているママの誕生日の8月5日には、毎年店に駆けつけてライブをやり続けている。

そして今、現代ジャズの最先端をいく福盛進也のデビューアルバムが、この「いんたーぷれい8」が揺籠となって生まれた。

世間からは、古臭く、すでに役目を終えたかのように思われているジャズ喫茶にも、まだまだ新しいジャズを生み出すパワーが残っているようだ。

(次ページへ続く)

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