日本語版ダウン・ビートとジャズ喫茶「木馬」

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富田英三はすでに『ダウン・ビート』でもイラストと文で構成する連載を持っており、『スイングジャーナル』での連載には『ダウン・ビート』休刊後同誌の編集に加わった児山紀芳がかかわっていた可能性がある。

それまでは広告主としてしか扱われなかったジャズ喫茶が、読者の気をひくための編集テーマとして編集者から着目されるようになったのはこのころからといっていいだろう。

また、児山編集長時代の『スイングジャーナル』では、その在任期間の1960年代後半から1970年代末までの中で全国のジャズ喫茶探訪をはじめジャズ喫茶を取り上げる企画がたびたび立てられており、同編集長がジャズ喫茶をジャズ専門誌にとっては軽視できないものとみていたことはたぶんまちがいないだろう。

スイングジャーナル1965年10月号
スイングジャーナル1965年10月号「だんも・だんも/ジャズ喫茶漫歩」第1回 p98

この企画は毎号見開き2ページで、第1回目は新宿の「木馬」と「汀」だった。

「木馬」は当サイトのコラム「『ジャズ喫茶は会話禁止』という都市伝説」でも登場した、「会話禁止」ルールで有名になった店だ。この「だんも・だんも」では、小沢店主の「ここはモダンを聴く店で、ジャズに溺れて騒ぐ人は来ませんね」というコメントが紹介されている。

話を戻すと、『日本語版ダウン・ビート』には毎号ジャズ喫茶の広告が何本か掲載されているが、『スイングジャーナル』よりも写真は鮮明だ。この号で目を引いたのは新宿・歌舞伎町の「木馬」の広告だ。「木馬」の創業は1951年だが、1961年10月に大改装している。この広告は、改装後のこの店の様子をよく伝えるものだ。

喫茶木馬の広告日本語版ダウン・ビート1962年4月号
新宿・歌舞伎町のジャズ喫茶「木馬」の広告。日本語版ダウン・ビート1962年4月号

まず店内が明るい。客はほとんどがサラリーマンで学生はいない。左端にスーツのような制服らしきものを着た若い女性が数人立っているが、これはたぶんウェイトレスだろう。

この写真でみるかぎり「木馬」には60年代新宿のアンダーグラウンドな雰囲気はまるでない。なんだか「とっぽい」という言葉がぴったりくる、シャレてキザでスマートな空間だ。

こういう場所でウェイトレスに「お静かに」と叱られては、驚く客が続出するのも無理はない。

「木馬」の会話禁止が有名になった理由のひとつは、この丸の内か有楽町あたりのティールームのような雰囲気とのアンバランスさもあっただろう。平岡正明の『昭和ジャズ喫茶伝説』(平凡社)によると、諏訪優や清水俊彦がよく来ていたという。また同書には「オーナーは水谷良重である」とあるが、筆者は偶然、水谷良重ご本人に確認する機会があって尋ねてみたところ「私はお手伝いをしていただけ」とのことだった。水谷によるとこの頃、クリス・コナーやホレス・シルヴァーとすき焼を浅草の「今半」で一緒に食べたこともあったという。

「木馬」に初めて筆者が行ったのは1979年だったので、1971年にコマ劇場近くのビル地下に移転した後だ。

地下に降りるエレベーターが開くと、すぐ目の前に鎧兜や古時計などが陳列されたガラスケースが置かれていたと記憶している。改装前の店でもこのアンティークの陳列が特徴だったようだ。

内装はやはりティールームのようだった。驚いたのはその広さだった。

当時を知る人に「まるで体育館みたいにデカかったですよね」というと、みんな「そう、そう」と笑う。まぁ、体育館はちょっと大げさだが、生バンドが入るグランドキャバレーぐらい(たとえが古過ぎる?)の規模には感じた。

そして、音もけっこう大きかったが、キャパが広いのであまりうるさくは響いてこなかったように思う。かかっていたのは、中間派的なものやモダン・ジャズでもそれほどエッジの立っていない穏健なものが多かった。

ほとんどの客はワイシャツにネクタイを締めたサラリーマンだった。

やがてこの店は二代目が経営を引き継ぎ、創業当時の「会話禁止」の硬派な営業方針から大幅に軟化した路線へと変更され、私もここを訪ねることはなくなり、1994年ごろにいつのまにかなくなっていた。閉店の正確な時期を私は知らない。

その後オーナーが替わったのか、池袋のレゲエクラブだった「キングストンクラブ」が移転してここで「新宿キングストンクラブ」となり、1998年からは現在の収容人数150〜300人のトークライブハウス「新宿ロフトプラスワン」になった。(了)

文・楠瀬克昌

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