神戸ジャズ喫茶巡り
さて、いまも神戸はジャズの盛んな街であり、自治体が中心となってイヴェントを開催して「ジャズの街神戸」を全国にアピールしている。なかでも三宮、元町界隈にはジャズ・スポットが集中していて、その気になれば1日でぜんぶまわることもできる。
神戸のジャズ喫茶、ジャズバーをちょっと紹介してみよう。
JAMJAM(ジャムジャム)
元町駅からすぐ、元町通1丁目の ビル地下にある「JAMJAM」は、おそらく関西ではもっとも爆音で聴かせてくれるジャズ喫茶だ。とにかく音がデカイ。
大きな特徴は、会話厳禁スペースと談話スペースに分れているところ。スピーカー前の会話厳禁席には真剣にジャズを聴く客が多いので、オーダーをするときも声を出さずにメニューを指差したほうがいい。いっぽう、会話スペースはゆったりとしたソファーに腰掛けてリラックスできる。
ケーキなど甘味類のメニューも豊富で若い女性客も少なくない。硬派と軟派、ふたつの顔を持ち合わせた面白い店だ。
M&M(エム・アンド・エム)
「JAMJAM 」から歩いて5分ぐらい。神戸の中華街「南京町」の西安門のそば、「うみねこ堂書林」という古本屋の2階にある。
2008年に創業者のママが突然病気で亡くなり、当時30歳だった現マスターが店を引き継いでいる。
カレーをはじめ飲食メニューが豊富なので女性客も多い。中華街見物のついでに立ち寄る客も多いようだ。くつろいで会話を楽しんでいる客が大半だが、BGM程度でジャズを流しているわけではなく、マッキントッシュのアンプと大きなアルテック・スピーカーというジャズ王道のオーディオで、アナログレコードの音をしっかりと聴かせてくれる。
茶房Voice(ヴォイス)
全国にある「センター街」の元祖といわれる神戸三宮センター街。アーケード商店街には珍しい2階構造になっているが、そこに面した複合商業施設、センタープラザ西館の2階にある喫茶店。
先代マスターのジャズ好きがこうじて所有するジャズ・レコード数はいつのまにか6,000枚を超え、ジャズ喫茶のようになってしまったという。長い歴史があるため、神戸のジャズ・シーンではよく知られた存在。
真空管アンプでヴィンテージのアルテック・スピーカーを鳴らしているが、音は小さめ。珈琲店として楽しんだほうがいいだろう。茶房という名がしっくりくる、たいへん落ち着ける店だ。
隣には先代が経営する真空管アンプの修理や販売を行なうオーディオの店「Radio days」、センタープラザ東館地下1階には系列店のカレー屋「SAVOY」がある。
JAVA(ジャヴァ)
三宮駅西口を出てすぐの高架線下にある創業1953年の歴史ある店。当時の造りをほぼそのまま今に残しているようで、昭和30年代のジャズ喫茶の雰囲気を満喫できる。来店して歌ったという江利チエミやここでレコードコンサートをやった大橋巨泉のサイン、当時使っていたオーディオ機器などが店内にディスプレイされている。
巨泉と神戸とは縁があり、夜行列車に乗って東京からよく仕事に来ていた。自伝によると、いちばん最初に彼が神戸でDJをやったのは1957年のことで、創業したばかりの「コペン」というジャズ喫茶だった。
当時の巨泉はまだ仕事が少なく、積極的にジャズ喫茶に声をかけて回っていたようだ。「ジャヴァ」でのレコードコンサートもその時期に行なったものだろう。
ちなみに巨泉はこの年の秋に公開された石原裕次郎の映画『嵐を呼ぶ男』の挿入歌、「おいらはドラマー」のフレーズで知られるタイトル曲を手がけたことで注目を浴びて売れっ子となり、困窮生活から脱する。
グーグル・マップのこの店の表示はまったく間違っているので要注意。三宮駅西口改札を出るとすぐ左手に見える「ドトールコーヒー」の前を、向かって左に直進するとすぐ。
「さりげなく」
村上春樹が通っていたジャズ喫茶としても知られるが、オーナーが替わって場所も北野坂に移り、いまは夜のみ営業のジャズバー。
めずらしい店名は先代マスターの国東光治さんが、ロジャース&ハートのスタンダードナンバー「It Never Entered My Mind」のタイトルを自身で「さりげなく」と訳してつけたものだと、かつて常連だった人から筆者はその由来をうかがったことがある。
国東さんはアニタ・オデイが歌うバージョンがお気に入りだったようだが、マイルス・デイヴィスの演奏でもよく知られている。2代目マスターの冨山公雄さんになってからすでに30年を越えた。 ボックス席もあるがカウンター席中心の店。
他にも三宮、元町界隈には老舗ジャズ喫茶「木馬」が移転してリニューアルした「MOKUBA’S TAVERN」やカフェでありライブスポットでもある「萬屋宗兵衛」などがあるが、「KOBE jazz.jp」というウエブサイトの「ジャズ探訪記」に、神戸のジャズ喫茶、ジャズバー、ライブスポットを一軒ずつ丁寧に取材した素晴らしい記事が掲載されているので、ご興味を持っていただいた方はそれをぜひチェックしていただきたい。
ところで朝ドラの常連、佐川満男が今回も出演している。
キアリスの看板商品であるベビー肌着用のメリヤス生地を織る工場の職人として登場、当時もすでに稀少となっていた古い機械を操る、キアリスのブランド力を縁の下で支える役どころだ。
前回登場の「マッサン」では、北海道・余市工場のウイスキー蒸留機の要となる真鍮ポットスチルをつくる製作所の社長を演じていたが、「カーネーション」や「だんだん」など、NHK大阪制作の朝ドラにはもう欠かせない顔だ。
筆者の世代は、佐川ミツオから佐川満男と改名し、アゴヒゲをたくわえたダンディな顔立ちで「今は幸せかい」(1968年)を大ヒットさせてスターの座に返り咲いた頃からしか知らないが、「佐川ミツオ」で1960年にデビューした当時は、「無情の夢」や「ゴンドラの唄」などを少年がさえずるような甘い声でヒットさせた、いまでいえばジャニーズふうの人気アイドルだった。
内田裕也のオフィシャルサイトによると、内田が生まれて初めて結成したバンドのメンバーの一人が佐川ミツオだった。
1957年、大阪の高校を中退した内田は、佐川とバンド・ボーイをしながらロカビリー・バンドで活動を始めたという。佐川はその後、のちにホリプロ社長となる掘威夫率いるロカビリー・バンド、スウィングウエストのボーカリストを務めた後、ソロデビューする。
本記事のキャッチ画像として使っているのは、1961年に佐川ミツオがリリースしたシングル「逢いたいなァママ(A面)/哀愁のジャズ喫茶(B面)」のジャケット。
「逢いたいなァママ」はあまりパッとしない結果に終わった曲だ。作詞は佐伯孝夫、曲は吉田正。「有楽町で逢いましょう」をはじめ「東京ナイト・クラブ」「潮来笠」「いつでも夢を」など、昭和30年代から40年代にかけて多数の大ヒットを生み出したゴールデン・コンビだ。
このコンビによる大ヒットのひとつにフランク永井の「西銀座駅前」(1958年)があるが、歌詞の三番に「若い二人はジャズ喫茶 ひとりの俺の行く先は 信号燈が知ってる筈さ」とあるように、佐伯孝夫はジャズ喫茶を当時流行の風俗として扱うのを好んだようだ。ちなみに西銀座にはジャズ喫茶ブームの先鞭をつけた「テネシー」などがあった。
蛇足だが、昔は地下鉄丸の内線に「西銀座」という駅があり、この歌はその開通の翌年にできたもの。1964年に日比谷線銀座駅が開通したときに、銀座線「銀座」駅と丸の内線「西銀座」駅と日比谷線「銀座」駅が統合されていまの東京地下鉄(東京メトロ)「銀座」駅となった。
<逢いたいなァママ><哀愁のジャズ喫茶>ともに、ジャズ喫茶を題材にしたものだが、管楽器のオケが入ってはいるものの、ジャズ的な要素はほとんどなく、泥臭いリズムは1950年代のアメリカのR&Bに近い。佐川ミツオの持ち味だった過剰なまでにウエットでとろりと甘い歌声が響く、情感豊かな昭和歌謡になっている。
佐川満男は神戸出身でいまも神戸に住んでいる。1960年の彼は21歳。「べっぴんさん」で描くその頃の神戸は、まさに彼の青春そのものだった。 (了)
text by 楠瀬克昌
コメント