管理教育とママのいるジャズ喫茶
高校の校則が全般に厳しくなったのは1970年代以降ではないだろうか。
その理由としては、まずは進学率が90%を超えてしまうと、手間や世話のかかる生徒がどうしても多くなり、生徒の自主性、自律性を尊重するという建前だけでは現場が成り立たないという点があるだろう。
また、1970年前後の全共闘運動、学園紛争の影響が高校現場にも及び、学園の自治を要求する生徒会に手を焼いたことへの反動から、生徒への管理を強化する方向に学校が舵を切ったという面も大きい。
この傾向が顕著になったのは、全国の国公立大学に共通一次試験が実施され、私立も含めて偏差値による大学ランク付けや進路指導が徹底されるようになった1970年代末以降ではないかと思う。
とくに1980年代に入ってからは、たとえば愛知県の高校では厳しすぎる集団訓練によって自殺者が出るなど、過度の「管理教育」が社会問題となった時期もあった。
筆者は1978年に高校を卒業したので、その翌年から共通一次試験が導入された世代なのだが、この時期、自分の高校の雰囲気が変わってしまったことは肌で感じた。
私の高校は旧制中学を前身とする県立校だったが、高知県では戦後は私立のほうが受験に強く、県内では3番手程度の進学校だった。校風はゆるく、市内の繁華街にあったため、昼休みは学校を抜け出して外の飲食店で昼食を済ませる者もいた。また、制服による喫茶店の出入りも禁止ではなく、放課後に立ち寄る生徒はたくさんいた。関連する校則といえば「盛り場をむやみにうろつかない」という程度のものだった。
しかし、私よりも1つ下の学年、ちょうど共通一次試験元年の世代あたりから、校則が少しずつ厳しくなりはじめた。
たとえば私の記憶にあるのは、男子の制服の下は、白いものであればボタンダウン・シャツもOKだったのが、その学年からは禁止となったことや、修学旅行の自由行動のさいは、われわれの学年までは私服でも可だったのが、その学年からはジャージ着用を強制となったことなどだ。同じ学校の中で学年によってルールが違っていいものかとあきれたものだったが、粛々と校則が変えられていった。
なぜ、こうした変化が起きたのか、いちばんの理由は、「よい高校」とは、偏差値の高い大学にできるだけたくさん生徒を進学させる学校であり、「よい高校生」とは、脇目もふらず意識を勉学に集中する生徒だからだ。
「よい高校生」を多く集めるためには「よい高校」を目指しつづけなければならない。そのための手段としての校則強化があった。
それは学校の責任だけではなく、それを求める保護者が多かったという面もある。また、それが生徒本人にとってもいちばんよいのだという考え方もある。
この共通一次試験が導入された70年代末以降に高校生活を送った人は、その前の世代よりも厳しい校則を経験した人が確実に多いだろう。「べっぴんさん」でジャズ喫茶に高校生がいることに対して「こんなこと、ありえんだろう」という声を挙げる人たちの多くはこの世代だろうし、自身では体験していないのだから無理もないことかもしれない。
いっぽう、さくらや龍一、健太郎たち、昭和30年代に思春期を迎えた世代は、戦後もっとも自由な空気のなかで十代を送ることができたのかもしれない。
敗戦によってそれまでの日本を支配していた体制や思想、価値観が崩壊し、自信を失っていた大人たちに対して、アメリカによってもたらされた新しい民主主義の下で「それは違う」と異議を唱えることのできた時代だったからだ。
話を現代に移すと、校則というのは、国が定めた法律でも地方自治体による条例でもない。
同じ時代、同じ地域であっても、各校によって厳しさの度合いに天と地ほどの違いのある究極のローカル・ルールだ。いまでも制服のまま喫茶店に入ってもなんのおとがめもない高校もある。
たとえば、2年前だが、岩手県一関市のジャズ喫茶「ベイシー」で、制服姿の男子高校生5、6人が座っているのを見かけたことがある。店のすぐ近くに県立一関第一高校があるので、そこの生徒たちだったのかもしれない。マスターの菅原正二さんはこの高校の卒業生だ。「ベイシー」が全国的に著名な店であり、マスターが地元の名士ということもあって、それをとがめる地元の人間はまずいないだろう。
さきほど「ヨーソロー」のモデルとして挙げた神戸のジャズ・レストラン「SONE」の場合は、ママの曽根さん自らが地方の中学校や高校に声をかけて、修学旅行生たちが店にやってきてジャズの演奏を楽しんだり、生徒たちが演奏をしたりしたという。曽根さんによると、中高生のうちから生のジャズに触れる機会を多く持ってもらえればということだったそうだ。
このように、コミュニティのつながりや信頼関係の中で制服姿の学生がやってくるジャズ喫茶やジャズ・スポットもある。
東京・神田のジャズバー「Root Down」のマスターは、筆者より4、5歳下だが、すでに中学の頃から御茶の水駿河台下のジャズ喫茶「スマイル」に通っていたそうだ。そこには中高一貫の有名な私立女子中学生も来ていたという。
中学生がジャズ喫茶に通うというのも東京ならではだが、モダンジャズブームが全盛期を迎えた60年代半ごろからは、中学生のジャズファンもかなり増えたようだ。しかし高校生とは違って、義務教育下にある中学生のジャズ喫茶通いについては前述のハイミナールなどの薬物問題なども絡んで、世間の目はかなり厳しかったようだ。『ジャズランド』1977年 11月号の座談会「話そう! ジャズの楽しさを!!」(出席者:中平穂積、松任谷国子、小寺欣一、司会・岩浪洋三)の中で、新宿「DUG」オーナーが中平穂積氏が、当時について次のように振り返っている。
岩浪 今一番下の年令でジャズ聞くのはいくつ位でしょうか。
小寺 くわしくデーター調べていないからわからないですね。FM東京では十六位までしか調べてないんです。
中平 だいたい中学三年位からじゃないですか。ずーっと前だけど僕のとこの店へも中学三年位のが、三人組で、どうしても聞きたいから、入れてくれという人達がいましたがね。聞いてみると、レコード買いたいけどお金もないし、そうかと云って、年少だからどこのジャズ喫茶も入れてくれないしというわけ。かわいそうだけど、僕のところでもまずいからことわりましたがね。
小寺 喫茶店も年令制限があるんですか?
中平 十年位前は、おまわりさんが、青少年補導でしょっちゅう廻って来ていましたからね、入れると僕らが始末書書かされるのでね。年少のジャズファンはそういう点かわいそうですね。ラジオではそうジャズばっかりやっていないし、レコード買うにもお金もないわけだしね。
「スマイル」に中学生も来ていたのは70年代に入ってからの話だが、彼らのような「年少」が入ることができたのは「スマイル」のママ、加納とも枝さんのキャラクターに負うところも大きいだろう。
加納さんは2003年に移住先のニューヨークですい臓ガンのため亡くなるが、昭和のジャズ喫茶名物ママの一人と言っていい存在だ。熱烈な映画ファンとしても知られ、『話の特集』や『キネマ旬報』などで映画に関するコラム、エッセイを連載し、『シネマの快楽に酔いしれて』(清流出版)という本も上梓している。
1953年前後の話だが、加納さんは映画会社にその熱心さを認められ、通っていた私立共立女子中学の制服姿でいつも試写室に入り、封切り前の作品を映画評論家たちと観ていたという。ある評論家に「あなたはどこの会社の方ですか」と尋ねられて「共立です」と応えたそうだ。こういうママだから、自分の店に女子中学生がいてもさして気にとめなかったのだろう。
「スマイル」のリクエストのルールは他店とは少し違っていて、ふつうはレコードの片面ぜんぶをかけるのだが、この店でリクエストが認められるのは1曲のみだった。ジュークボックスのような感覚だったのかもしれない。会話は禁止ではなく、ママと客がジャズや映画の話題で盛り上がる店だった。
「ヨーソロー」のすずママもそうだが、店主が女性だと、店の雰囲気は明らかにちがう。
女性客が安心して落ち着けるのだ。どのジャズ喫茶にもいえることだが、ママのいる店には女性客が多い。
「ヨーソロー」で五月やさくらが働き、いつのまにか親の世代の明美やすみれが店のなじみとなり、カウンターに座って珈琲をほっこり飲んでいるのも、このすずママの存在ゆえだろう。
ドラマでは、五月の恋人、河合二郎が上京してプロ・ドラマーになるかどうか迷ったあげく、父親に逃げられて残されてしまった弟や母親の面倒、そして妊娠をさせた五月のために神戸に残るという決断をすることになった。
そして五月の出産後、すずママは、自分は引退して二郎と五月に「ヨーソロー」を継がせると宣言する。これが2月11日に放送された第109話で、「ヨーソロー」を中心に展開していた「ジャズ喫茶編」は、おそらくここでひと区切りがついたことになるだろう。
初めて河合二郎が出てきたときにすぐに連想したのは、「ベイシー」のマスター、菅原正二さんだ。
菅原さんは大学在籍中は早稲田大学ハイソサエティ・オーケストラでドラムを叩き、アメリカまで遠征するほどの腕前だったが、身体を壊したことにより故郷の岩手の一関に帰り、やがて「オーディオでは日本一のジャズ喫茶」言われる店を開いた。店にはドラムセットが置かれ、気が向いたときにはレコードに合わせて叩いたり、ライブでも叩いたりする。二郎もゆくゆくは日本一と呼ばれるジャズ喫茶のマスターになるかもしれない。(次ページへつづく)
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