「ジャズ喫茶」という言葉にはさまざまな顔がある
北村公一の『50年代ジャズ青春譜』(現代書館)は、モダン・ジャズ・ブームが始まる前夜の東京の思い出を綴ったものだが、そのなかに八重洲口の人気店だった「ママ」についての面白い記述がある。まだ「ママ」が移転改装して大きくなる前の、20人も入ればいっぱいだったというこじんまりした店舗だったころの話だ。
それは1957年前後のことのようだが、あるとき『ホレス・シルヴァー&ザ・ジャズメッセンジャーズ』が店内で流れはじめると、30代ぐらいのカップルが席を立ってツイストのようなダンスを始めたと北村は書いている。まだツイスト・ブームがやってくる数年前だ。本書以外にも、この頃の同店では黒人客がよく踊っていたという記述も残っている。
また、1960年、ファンキー・ジャズ・ブームが巻き起こっていたさなかのある夜には、ドナルド・バードの人気盤『フュエゴ』の「ロウ・ライフ」を客全員で歌ったこともあったという。
さあ、レコードでの演奏が流れだすと、おもしろいことになった。それは『ママ』でのことだったが、「ロウ・ライフ」のブルース・マーチ風なテーマがはじまると、そのメロディーに合わせて、一人の客がうたいだしたのである。
それは、歌というより、歌詞のないスキャットに近い。パパパーッ、パッパパ、パパパッパパ、パッパパ……口(くち)三味線ならぬ、口(くち)アルトである、口(くち)トランペットである。
五人のテーマの合奏が終わって、ジャッキー・マクリーンのアルト・サックスのアドリブがはじまると、別の客がそのメロディーをうたいはじめた。
つづいてドナルド・バードのソロになるころには、パパパーッ、パッパパの小合唱になった。
そして、一人、二人と、小声で合わせる客が増えていく。でテーブルをたたく客もいる。
デューク・ピアソンの短いピアノ・ソロがはじまると、自分もピアニストになったようにテーブルを弾くまねをする客もいる。
そして、最後に再びテーマに戻って合奏になると、もう店内は大合唱である。
ドナルド・バードの『フュエゴ』については、そのファンキーでキャッチーな内容のために「ジャズ喫茶のマスターや常連のようなアタマの固いジャズ・ファンからはB級盤とバカにされていたアルバムだが、90年代以降のクラブシーンによって再評価された」という言い回しをする人が最近は少なくないが、リアルタイムのジャズ喫茶では、このようにおおらかで牧歌的ともいえるリアクションで歓迎されていたこともあるのである。
「ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶と呼ばれるようになったのか」というテーマでここまで書いてきたわけだが、「ジャズ喫茶」という言葉が一般に広く使われるようになったのは、ライブハウスとして脚光を浴びた1953年の銀座「テネシー」の開業とそれに続く類似の営業形態の店の出現からといっていいだろう。
そのいっぽうで、「本場アメリカの一流ジャズのレコードを一流のオーディオで鑑賞する」というマニアックなニーズを満たすための喫茶店という、戦前からの伝統は戦後になっても生き続けていた。いまわれわれがイメージするジャズ喫茶は、このスタイルに近いだろう。
やがて60年代に入り、高度経済成長を向かえて高学歴の都市生活者が急増していくなかで、知識人や教養人、もしくはそれに憧れる人々のためのハイブロウなジャズ喫茶が求められたというのも、時代の要請であったに違いない。
その流れをいちはやくとらえたのが新宿「DIG」であり、それに続いた新しいジャズ喫茶によって、現在にいたる「ジャズ喫茶」のスタイルやイメージが決定的に形づくられていったということだ。
「テネシー」や「ACB」のような店は、ジャズ喫茶の約90 年の歴史でみれば亜流と位置づけられてしまうのは仕方がない。
しかし、こういう店が繁盛して、戦後まもない時期に大きなジャズ・ブームが起こってくれたおかげで、多少の上げ底があったとはいえジャズ・ファンが広がり、「正統派ジャズ喫茶」が生きながらえることができた側面もあるはずだと私は思う。
「ジャズ喫茶」という言葉には、一面的な解釈では定義づけることのできない、複雑でさまざまな顔があるのだ。
(了)
photo & text by 楠瀬克昌
【トップの写真:現存する日本最古のジャズ喫茶、横浜「ちぐさ」】
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