ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶になったのか

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ジャズファンのための「ジャズ喫茶」として定着

いちばんはじめにも書いたように、1953年ごろから「ジャズ喫茶」という名前が一般に広く知られるようになり、はじめはジャズの生演奏を聴かせる喫茶店という認識が強かったのが、1955年前後あたりから、ジャズ・レコード鑑賞をする店という、現代のジャズ喫茶店により近いイメージへと人々の意識も変化していったようだ。

そのことを象徴する記事をここに挙げておく。

swingjournal1958年10月号
河野隆次、久保田二郎対談「ジャズファン気質」スイングジャーナル1958年10月号

『スイングジャーナル』の1950年代の人気記事に河野隆次と久保田二郎の連載対談があった。ラジオ番組のパーソナリティーなども務めて当時人気の高かったジャズ評論家河野隆次と『スイングジャーナル』編集長も務めたジャズ評論家久保田二郎によるものだ。

同誌の1958年10月号に「ジャズファン気質」という題で、当時急増したジャズ・ファンを肴に大いに語るという趣旨の対談が行なわれている。そのなかで2人はジャズ喫茶についても言及している。

 河野 とにかくジャズ・ファンにもさまざまなかたちがあるな。むかしはジャズ・フアンといつてもレコード・マニアと数すくないジャズ・レコード喫茶店で聴くぐらいしかなかつたけれど、ジャズ・ファンの増加ということはつまりワイドスプレットになつたということだよな。

久保田 そうそう、ところで河野さん、われわれだつて昔はジャズ・ファンだつた時代があつたんだけど河野さんの場合はどちらだつた?

河野 両方だよ。レコードを集めながら喫茶店へも通つたよ。

久保田 僕もそうだな。

(略)

久保田 浅草にボンソアールといういい喫茶店があつた。いまもあるらしいけどジャズ・レコードはかけないんだ。

河野 あつたね、そこに中学生で行つてると野口久光さんや映画の双葉十三郎さんがお連れでよく見えたし、ピアノの野辺地勝久さんなんかもフアッツ・ワーラーを聴いて感心してたよ。

久保田 よそにはいわゆる街のジャズ・ファンがあつまつていたんだよ。そこで或る昼下がり、ぼくがレコードを聴いてると白い血だらけの上つぱりを着て長靴をはいてるニワトリ屋の源さんという人と、ヨレヨレのカスリを着て度の強いメガネをかけた指環作り職人のセンチャンという二人がぼくに話しかけてるんだ。〝学生さん、あなたは大分ジャズにこつてらしいけど、トロンボーンじや誰が好きなの〟つてさ。

河野 よくジャズ・喫茶で出る話題だよ。

久保田 そこでこの俺はトミー・ドーシーと答えたね、なにしろ今から20数年前のハナシだから、中学生の俺はトミー・ドーシーぐらいしか充分にきけないわけさ、そうしたら、そんなヤツ聴いてるようじや学生さん、あんたは見込みがないよ、ときた。(笑)

河野 大アップだね。(笑)

久保田 それで、じやどんな人をきけばいいんですかと聞いたら、〝まあヒツジン・ボッチャンを聴いてみな〟というんだ。

河野 ヒツジン・ボッチャン?

久保田 ねえ河野さん、わかつたでしょう。J・C・ヒギン・バアサムのことなんだけど、20数年前にしかも街のフアンにこういうのが居たんだからオドロキだね。(笑)

河野 すごいもんだね、しかし喫茶店のレコード・フアンというのはまあ他流試合の碁会所みたいなもんでうるさい人が沢山居るんだよ、これは今でも同じだよ。

久保田 まつたく同じだね、ジャズ・ファン気質というものは変りないんだよ、とにかく銀座の××キッサ店に来る××大学の学生はチャーリー・パーカー博士だとか、渋谷の××はジョージ・ルイスにかけては本職もかなわないなんて噂がひびいちやつて、わざわざその人に他流試合を申し込みに行くんだからな。

河野 ジャズ・フアンの中でジャズ・キッサの果たす役割は意外に大きいよ。〝ジャズ・キッサ発達史〟というのはそのままジャズ史の半分を占めると云つても過言ではない。だからね、久保ちやん、喫茶店のオヤジさんが先づジャズ・ファンなのでジャズ喫茶が出来るだろう、今まで随分人物がいたよね。

久保田 いたいた、デュエットの寺田マーチャン。ボンソアールのおきみさん(現セシボンのマダム)。

河野 アメリカ茶房の伊藤栄次郎(現上野イトウ店主)、ユタカの永井ユタカ、ココナツ・グローヴのマサチャン(現下北沢のマサコを経営)、神田のチェリーのマダム(現麻雀屋を経営)。

久保田 ブラウン・ダービーの宮本さん(現銀座キャンドル経営)などまだまだあるよ、これは一つ会を改めて語りたいね、みな珍人奇人だからな。

河野 それに現在のあたらしいジャズ・レコード喫茶のマスターなどを交えて語りたいものだよ。

この当時からすでにジャズ喫茶が昔語りの対象となっていることも面白いが、この対談が掲載された1958年頃には、「ジャズ喫茶」というと、銀座「テネシー」のような、ジャズファンとはあまり縁のない客も多いロカビリーのライブスポットではなく、「ジャズファンのためのジャズ・レコード鑑賞店」であることが共通認識となって話題にのせられていることが読み取れる。その背景にはこの対談でも語られているように、この頃から急速にジャズ・ファンが増えていったことがある。

また余談だが、下北沢「マサコ」のマサコママこと奥田政子さんは、前身はダンサーだったという話が広く知られているが、この対談からは、「ココナツ・グローヴ」という喫茶店とかかわりがあるらしいことがわかるのも興味深い。この「ココナツ・グローヴ」については、今では資料はまったく残っていないようだが、1974年8月24日付の報知新聞に「おおおかみさん」という題のコラム記事に、このマサコママが取り上げられている。

記事によると、マサコママは大正13年に東京・芝神明町(現在の港区芝大門あたり)の待合いに生まれ、小さい頃から花街で育った。12歳のときに母を亡くし、まったく身寄りのなくなったマサコママは、当時銀座にあったジャズカフェー「ココナッツグローブ」で働くようになったという。1953年、月賦で買った下北沢の土地に木造の喫茶店を建てたのが「マサコ」の始まりで、戦前の「ココナッツグローブ」で女給として働いていたころのマサコママを知る客も通ったという。

筆者がこの記事の存在を知ったのは、閉店前の「マサコ」で働いていた女性が2017年に下北沢に開業した「ジャズと喫茶 囃子」のHPからだ。「ジャズ喫茶マサコ1953〜2009」というタイトルのついたコーナーへいくと、この報知新聞の切り抜き記事を読むことができる。

(次のページへ続く)

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